㉒ 棠陰令召像 一山心恒賛 江戸時代(18~19世紀) 草堂寺(和歌山県西牟婁郡白㉓ 寒渓令遂像 願海守航賛 文政13年(1830)賛 草堂寺(和歌山県西牟婁郡白浜浜町)(注8)町)(注9)関東地方から九州地方にかけて全国的に作例を確認できる。水谷憬南の活躍期については、これらの作例のうち款記等に年記を有するものを見出せない。ただし、いずれの作例も賛文をともない、賛文の款記によって着賛時期が判明するものも多い。現状、最も遡る作例が元文2年(1737)に着賛された①「亮山恵林像」である。ただし、①「亮山恵林像」は着賛より3年前の享保19年(1734)には描かれていたようである。そのことは、白隠慧鶴門下のひとり東嶺圓慈(静岡県三島市・龍澤寺2世、1721~92)の年譜である『龍澤創建東嶺慈老和尚年譜』(京都府亀岡市・法常寺)に垣間見ることができる(注10)。その記事を以下に記す。[享保19年(1734)条]同十九年、甲寅。師歳十四。亮山和尚、因事登華園。師嘗念、写受業之真懐行止。此時欲侍行儀山不敢許。乃詐曰、我欲上京師求九経、請今誘我。山復止之。師強而請。遂聴随之。先上京師、倡山到画師水谷憬南之宅、令憬南写亮山之寿真。山旋、言師于求九経。師曰我已得師之真我事畢。山聞黙然。惟師未及志学殆有老成之籌策。この記事によれば、享保19年、東嶺14歳の東嶺圓慈は、受業の師である大徳寺(滋賀県東近江市)の亮山恵林(大徳寺4世、?~1750)のもとにあり、亮山が妙心寺(京都府京都市)に登るのに際して随行することを請うた。初めは断られたが許しを得て、亮山に随って上京した。この時、画師水谷憬南のもとへ赴き、かねてより望んでいた亮山の寿像を描かせたという。①「亮山恵林像」が享保19年に描かれたことを知るとともに、水谷憬南が京都を拠点に活躍していたことを示す貴重な史料である。いずれにせよ、水谷憬南の現存作例の着賛時期や像主・賛者の生没年によって、その活躍期は18世紀に想定されていたが、近年、活躍期等の再考をうながす興味深い作例が紹介された。それは草堂寺(和歌山県白浜町)に伝来する㉒「棠陰令召像」と㉓「寒渓令遂像」である(注11)。㉒「棠陰令召像」は、像主・棠陰令召(1723~1800)と賛者・一山心恒(1739~1818)の生没年から、18~19世紀の制作と想定される。㉓― 3 ―― 3 ―
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