期に準じた古様な表現と評価されている。ただ、早くに倉田文作氏が1970年に述べているように(注3)、翻波式衣文はすでに奈良・東大寺法華堂不空羂索観音像の裙裾にみられるため(注4)、その萌芽は奈良時代の乾漆像や塑像とみなすべきであろう。このほか、奈良・聖林寺十一面観音立像や、京都・高山寺阿弥陀三尊像の脇侍にも翻波式衣文があらわされている(注5)。このうち、特に東大寺法華堂像や聖林寺像は、現在、奈良時代半ば以降に官営工房の工人によって制作されたと認められているため(注6)、翻波式衣文は当該時期の官営工房で盛んに採用されていたとみなすことができよう。このように、官営工房における造像に採用される形で日本彫刻史に登場した翻波式衣文は、平安時代以降、木彫像の作例を増加させていく。その背景として、水野敬三郎氏は、木彫において翻波式衣文をあらわすようになったのは、東大寺法華堂像や、聖林寺像における表現の模倣から発し、これを形式的に整えたものと述べている(注7)。そして、木彫における模倣の先蹤として奈良・唐招提寺伝獅子吼菩薩立像を挙げる。唐招提寺像は、先行研究においては鑑真が将来した仏像、もしくは鑑真に伴われて来朝した唐工人によって製作されたとみなされてきた。しかし、これに対し川瀬由照氏は、宝亀10年(779)成立の『唐大和上東征伝』によると、天平勝宝5年(753)の鑑真来朝時のメンバーに僧侶は存在する一方で、工人に関する言及がないことから、この時工人が伴われていなかったとし、唐工人制作説に疑問を示す(注8)。さらに承和2年(835)に成立した『招提寺建立縁起』が唐招提寺の仏像制作の担当にいずれも僧侶を当てていることから、鑑真に伴われて来朝した唐僧の指導を受けて造東大寺司が制作を行なった可能性が最も高いと指摘した。川瀬説に従えば、唐招提寺像にみられる翻波式衣文は、造東大寺司工人によって表現されたことになる。もっとも、その表現を比較してみると、材質による差を考慮しても、東大寺法華堂像や聖林寺像は「丸みを帯びた大波」は太く立体感があり、「鎬たった小波」も明確にあらわし、それぞれの抑揚も意識的に豊かにあらわされている。これらと比べると、唐招提寺像は全体に抑揚に乏しく、まさしく水野氏が指摘したとおりの模倣と形式化にとどまっていることが想像でき、構成が似通っていても未だ木彫によって完全に模倣するまでに至っていないことが看取される。しかし、平安時代前期彫刻の初期の代表例として先に挙げた元興寺像、法華寺像、向源寺像のほか、奈良・新薬師寺薬師如来坐像、京都・神護寺薬師如来立像においては、その表現は飛躍的に進歩している。このうち、新薬師寺像は先行研究において捻― 112 ―― 112 ―
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