鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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的な背景には北部九州の伝統を持つとして、平安時代前期の仏像彫刻の展開を考えるうえで、重要な作例であると位置づけている。国生氏の谷川寺像に関する見解は、その後、井形進氏や宮田太樹氏に継承され、さらに検討が深められている(注14)。しかし、これらの研究はあくまでV字形衣文が北部九州に通有の表現であり、谷川寺像はそれを背景に制作されたと解釈されているため、まずは、V字形衣文の普及と発展の経過を検討してみたい。これについて、作例の確認を広く日本全国に広げてみると、V字形衣文をあらわす作例は各地に存在することが確認できた(注15)。そこで、①衣、②位置、③構成、④鎬の有無、の4項目を立てて分類してみると、〔表〕のとおりとなる。この〔表〕にもとづいて検討してみると、地域や時代による違いがあるため一概に述べることは難しいものの、表現の系譜としては、まず、奈良・岡寺伝義淵僧正坐像のようにV字形衣文を一条のみ意識的にあらわす、あるいは和歌山・青岸渡寺如来形立像のように規則的にあらわすことにはじまり、徐々に曲線とともにあらわして変化にとんだ衣文表現の一つになっていったと推測される。変化に富んだ表現を示す初期の作例として、ここでは特に埼玉・浄山寺地蔵菩薩立像に注目したい。浄山寺像において、V字形衣文は曲線とともにあらわすばかりか、間に鎬立つ小波をあらわし、翻波式衣文の発展形のような表現であり、作者の造形力の高さがうかがえる。林宏一氏によれば、浄山寺像の彫刻的特色は9世紀にさかのぼる奈良の木彫の系譜の中で位置づけられ、東国への天台教団の進出に伴ってもたらされた可能性があるという(注16)。天台教団の進出という視点で検討すれば、長野・清水寺薬師如来立像も注目される。花澤明優美氏によれば、清水寺像は延暦寺根本中堂に安置される最澄自刻の薬師如来像を規範とした天台薬師像に該当し、こちらもやはり天台教団の進出によってもたらされた可能性が高いという(注17)。このことから、V字形衣文は畿内に源流があり、徐々に発展しながら地方へ波及し、それぞれ独自の展開を示したことが想定できよう。なお、九州の作例においては、いずれも衣文がV字となるだけでなく、V字の頂点をつなぐ鎬をあらわす点も特徴とされてきた。浮嶽神社像のそれに比べると、北谷地蔵堂像や福岡・新原地蔵堂阿弥陀如来立像では側面観が鎬を頂点として角張り、衣も含めると面的な表現となり写実からは程遠いが、これ以前からの伝統に忠実に習おうとする姿勢が見受けられる。谷川寺像についても、国生氏が規範として挙げた神護寺像と比べると、腹部の隆起に伴う肉体の表現や衣文線のつながりが整理されておら― 114 ―― 114 ―

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