「寒渓令遂像」にいたっては、願海守航(?~1843)による着賛が文政13(1830)であり、像主・寒渓令遂(1751~1806)の没年を勘案しても19世紀に描かれた作例に位置付けられる。したがって、水谷憬南の活躍期は約100年と大きく開くことになる。これまで、㉒「棠陰令召像」および㉓「寒渓令遂像」の紹介において指摘されているように(注12)、水谷憬南の弟子が師匠の名(あるいは印)を継承し、2代もしくはそれ以上にわたって作画活動を行っていた可能性が高い。なお、草堂寺伝来の2点の存在は水谷憬南の作画活動の範囲の考える上でも重要な作例となり得る。すなわち、先にあげた水谷憬南の頂相作例はすべて妙心寺派寺院に伝来するものだが、㉒「棠陰令召像」と㉓「寒渓令遂像」が蔵されている草堂寺は東福寺派に属す寺院である点に注目したい。水谷憬南は妙心寺派寺院のみならず、さらに広範囲で活躍していたと想定される。また、これらのほかにも水谷憬南の頂相作例に関する情報が寄せられており、そのなかには、さらに広範囲で活躍していた可能性を示唆する作例が含まれている(注13)。また、妙心寺派内での活動範囲に目を向けると、先述の『龍澤創建東嶺慈老和尚年譜』でも触れた東嶺圓慈に関連した作例が多いことに気づく。龍澤寺(静岡県三島市)に蔵される⑭「東嶺圓慈像」をはじめ、由緒寺院の齢仙寺(滋賀県東近江市)や同寺に程近い長勝寺(滋賀県東近江市)にも作例を確認できる。東嶺の師である白隠の頂相④「白隠慧鶴像」のほか、東嶺と同じく白隠下の快巌古徹と遂翁元盧が賛文をしたためる⑯「寰界自定像」・⑰「関州禅義像」の存在も看過できない。さらに、東嶺が白隠に見える以前に参じていた古月禅材(1667~1751)に関連する作例が多いことも指摘しておきたい。⑪「古月禅材像」を描くほか、㉑「古林義発像」には古月下の月船禅慧が着賛する。③「頑海慈海像」の像主・頑海は古月の法嗣でもある。水谷憬南の活動範囲を知る上では、東嶺圓慈と古月禅材の2師との関係に注目でき、その考察については今後の課題としたい。なお、この度の調査では頂相以外の作例を見出すことができた。永福寺(静岡県浜松市、妙心寺派)に蔵される「涅槃図」〔図2〕である。本図は無落款であるものの、箱書は天明5年(1785)に水谷憬南が描いたものと伝える。さらに、本図は明治35年(1902)に同地の長福寺より寄進されたもので、水谷憬南は涅槃図のほかに出山釈迦図と隻履達磨図も手掛けたようである(ただし永福寺には現存せず)。このような涅槃図の作例としては、臨向寺(兵庫県養父市、大徳寺派)の「涅槃図」(寛政2年・1790)も確認されており(注14)、明和元年(1764)には選仏寺(京都府京都市、建長寺派)にも「涅槃図」を制作している。さらに選仏寺では、明和3年に「仏日純陀― 4 ―― 4 ―
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