鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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代美術、特に抽象的で非再現的な様式を取り入れることである」(注9)と考えるようになった。ここで簡略ながらクチュリエ神父の生涯を振り返っておこう。1897年にフランスのモンブリゾンで生まれたピエール・クチュリエは、哲学を学んだ後、従軍を経て1919年にパリに移り、アトリエ・ダール・サクレに入り芸術家としての修練を積んだ。1925年にはアトリエを脱会してドミニコ会修練所に入り、1935年にパリ8区の修道院に赴任した。この年、美術批評家ジョゼフ・ピシャールによって美術を通して信仰を復興させる目的で『アール・サクレ(■ʼ■■■■■■■■■)』誌(注10)が創刊され、翌年ピー゠レモン・レガメー神父(1900-96)とともにこの雑誌の編集に加わった。1939年に渡米し、主にニューヨークとカナダのケベックに滞在した。当初長期滞在する予定はなかったが、フランスでの情勢が変化し、ヴィシー政権が確立するとアメリカに留まることを決め、そこではヨーロッパからの亡命者のコミュニティーと交流した。1945年に一度帰国するが、1950年までは講演活動のため米仏間を往復していた。1950年に完全に帰国し、『アール・サクレ』誌に復帰する。そして、この年に聖別されたアッシー教会のキリスト像撤去を発端とする「聖なる芸術論争」が起こる。この論争については後述する。1953年にはロンシャンの礼拝堂の工事が開始されるが、この礼拝堂が聖別される前年の1954年2月9日にクチュリエ神父はその生涯を終えた。3.アッシー教会の建築と装飾1920年代から30年代にかけてのアッシーには、結核療養患者のためのサナトリウムが点在していた。1937年、患者たちを中心にここに小さな教会堂を建てる話が持ち上がり、その仕事を任されたジャン・ドヴェミ神父がたまたまアッシーに立ち寄ったクチュリエ神父に相談を持ちかけた。この年に開催された建築のコンペティションでモーリス・ノヴァリナ(Maurice Novarina 1907-2002)が選ばれ、1937年から1946年にかけて建設された。1939年6月にはクチュリエ神父がドヴェミ神父をパリに呼び、プティ・パレ美術館で開催されていた展覧会を見せた。ドヴェミ神父はそこで見たルオーの2点のステンドグラスに魅了され、その寸法がアッシー教会の窓にぴたりと合ったという「奇跡」に恵まれた(注11)。これ以降、装飾のほとんどはクチュリエ神父のアメリカ滞在後の1945年以降になされたものである。ステンドグラスを手がけたクチュリエ神父を含め、最終的に20名以上の芸術家が装飾に参加した〔資料1〕。最初にこの教会の装飾に参加したルオーは敬虔なカトリック教徒であったが、これ以降装飾を依頼された芸術家は、無神論者― 121 ―― 121 ―

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