(ボナール、ブラック、マティス、リシエ)、ユダヤ教徒(シャガール、リプシッツ)、そしてコミュニスト(レジェ、リュルサ)といった非キリスト教徒がその多くを占めていたことが注目される(注12)。ステンドグラスの寸法にまつわる逸話が示すように、すでに設計された空間に装飾が加えられていった。教会西側の正面ファサードは、スイスの山小屋シャレを彷彿とさせる大きな両流れの屋根の下に8本の石造円柱が並ぶ構造をとっている。正面ファサードのモザイク画を手がけたレジェは、設計にそってエスキースを作成している〔図3〕。中央の扉の上に聖母がのぞみ、それぞれの色面に聖母マリアの連禱を象徴するモティーフが配置されている。あらかじめ色面のパターンで画面を分割することで、柱によって分断されるのを避けている。このように部分的には建築との調和が試みられているものの、全体として建築と装飾とが不調和である印象は否めない。石造の壁を木組の柱が支える山小屋風の建築空間のなかで前衛的な装飾は「異質」なものとして映る。たとえば、マティスによる陶板画〔図4〕は壁に嵌め込まれた美術作品のようである。これは芸術家が同時期に制作したヴァンスの礼拝堂─そこではこの芸術家がすべてをプロデュースした─の陶板画とは対照的である。建築空間における「異質さ」という点では、この教会をめぐる論争の火種となったリシエのキリスト像が異彩を放っている。次章ではこの教会で最大の問題となったリシエのキリスト像について見ていこう。4.リシエのキリスト像撤去と「聖なる芸術論争」リシエがアッシー教会のプロジェクトに関わるようになったのは1948年に結核で療養中の姪をアッシーに見舞ったのがきっかけであった(注13)。彼女はクチュリエ神父とドヴェミ神父から祭壇中央の磔刑像の制作依頼を受け、はじめ辞退するが、熱心な説得に屈して1949年に制作を開始した。磔刑像の制作に先立ち、ドヴェミ神父はリシエに『イザヤ書』53章の次の一節を提案したという(注14)。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。/見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。/彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。/彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた(53: 2-3、新共同訳)。リシエは自らの作品を「聖歌隊席に植えられた(突き刺さった)一つの兆し(記― 122 ―― 122 ―
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