鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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号)(un signe planté dans le chœur)」と譬え、クチュリエ神父に構想を書き送っている。彫刻家の狙いは十字架としての記号的な象徴性を際立たせることにあり、肉体や衣の細部表現は極力簡略化され、最終的にキリストの肉体(特に両腕)と背後の十字架が一体となるまで抽象化された。また、ブロンズ表面にできた凹凸を強調するため、パティナ(錆付け)による処理はあえて行わず、生地のまま残した。クチュリエ神父とドヴェミ神父は出来上がった作品を見て、そのまま受け入れたという(注15)。1950年8月4日にアッシー教会が献堂された際、リシエによる祭壇のキリスト像は、ほかの作品とともに批評家には賛辞をもって迎えられた(注16)。ところが、1951年1月4日にアンジェで開催されたドヴェミ神父の講演会の際、地元の保守的なカトリック信者によって配られた1枚のビラ〔図5〕によって事態が急変する。「神をからかうものではない!」と題したこのビラはこう記されている。フランスや国外で、アッシー教会(オート゠サヴォワ県)の肩を持つような奇妙な運動が起こっている。キリスト教美術を刷新すると豪語する無神論者の芸術家たちによって飾られたものだ。この運動は神の尊厳への冒涜であり、キリスト教の慈悲に対する躓きである。良識ある者は立ち上がれ!(注17)。さらに、ビラは自らの主張の正当性を裏付けるように、ヴァチカンで開催された国際展覧会の責任者で後の枢機卿コスタンティーニがローマ教皇庁の日刊紙『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』1949年2月13日号に公表した次の一節を引用している。あらゆる変形や逸脱によって、キリスト、聖母マリア、諸聖人の姿をもはやとどめていない人体像、それゆえ涜神的な言葉の視覚的表現でしかないような人体像は、教会から追放しなくてはならない(注18)。この騒動は波紋を広げ、1951年4月1日、8ヶ月前にこの教会の献堂を祝福した司教によってリシエのキリスト像の撤去が命じられた。祭壇から下されたキリスト像は司祭館の祭具室に運ばれた後、教会の死者礼拝室に移された(注19)。この事件はヴァチカンをも巻き込む論争へと発展する(注20)。そこでは「無神論者が教会という聖域を装飾できるのか」、「聖なる芸術と抽象芸術は適合できるのか」が争点となった。そこでクチュリエ神父は「理想としては信仰を持った天才たちの方がよいに決まっているが、現状ではそれがかなわない。典礼芸術の復興を達成させるとすれば、それは― 123 ―― 123 ―

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