ターが一般化したことも一因であると、本人も認識している。唐仁原の作品は、明治時代以降、西洋に倣って肖像画や歴史画、戦争画を描いてきた油彩画の男性像の系譜に、マンガやゲームに由来する「戦う少年」というモチーフを合流させたものに見えるが、そこに少年マンガのヒーローにつきものの戦闘シーンや男どうしの絆が描かれることはない。大きな目で鑑賞者を見返す孤独で頼りなげな少年たちは、日本の油彩画で培われてきた強い男性像のイメージへの疑問を呈している。3 「美男画」の変遷本展で「美男画」として集めた作品は大別すると、女性像の「美人画」と同じく「愛しい美男」として愛玩の眼差しを注がれるものと、美化をほどこしつつも男性性を強調した「戦う美男」の二系統に分類できる。本稿の最後にこの二系統の「美男画」の誕生と変遷について概観する。近世以前を振り返ると、「美男」としてまず思いつくのは「伊勢物語」の主人公のモデルとされる在原業平と、「源氏物語」の主人公、光源氏である。しかし現存最古の《源氏物語絵巻》(徳川美術館、五島美術館)をはじめ多くの絵巻や画帖は、物語の絵解きとして作られており、またほとんどの人物の顔が男女とも「引目鉤鼻」とよばれる記号化された様式で描かれるため、主人公の優れた容姿が特に強調された絵にはなっていない。光源氏や在原業平の身体をクローズアップし、「引目鉤鼻」から脱却した作例として早いものに、岩佐又兵衛の《源氏物語・野々宮図》(出光美術館)、《在原業平図》(同前)がある。源氏物語などの古典主題を手がける一方、風俗画を得意とし「浮世絵の祖」とも呼ばれた又兵衛が、貴公子たちを艶かしい「美男画」に仕立てた点は興味深い。中世の単身の男性像には武家や僧侶の肖像画もあるが、これらは礼拝の対象や権威の象徴であり、「美男」として鑑賞される絵ではない。よって「愛しい美男」が画題として成立したのは、「美人画」と同じく風俗画が隆盛した近世初期とみてよいだろう。一方、「戦う美男」像が定着したのも、武士や侠客が活躍する歌舞伎や絵本が隆盛した江戸時代だと考えられる。既述の通り「戦う男」が「美男画」として見られるには、フィクションというフィルターを必要とする。現実に戦乱がなく、芝居や絵の中で「戦い」が演出された時代が、「愛しい美男」と並んで「戦う美男」が享受される― 137 ―― 137 ―
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