鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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一 問題の所在周知のように、仏教が中国社会に深く浸透し続けた南北朝時代には、現存作例と諸文献によって分かってきたように、造像活動が盛んになったが、膨大な作品を残した北方に対し、南方の仏教遺例はほんの僅かである。現存作例の少なさと、かつて南朝の中心地であった建康(現在の南京市)やその周辺での作例、いわゆる中央作が稀にしか見られないという状況があって、美術史の観点から南朝仏教の諸実態を把握することが極めて難しいといえよう。肝心となる物証が提供できないまま、南朝仏教美術に関する研究は、長らく停滞を余儀なくされてきた。その一方、19世紀末から、成都市の万仏寺址をはじめとし、西安路、商業街、寛窄巷子、下同仁路等、市内の各地で南朝の石仏が次々と出土しており、いずれも旧成都城の西に分布している。そのほか、成都から西北へ岷江を遡ると、彭州の龍興寺、茂県や汶川県でも南朝の紀年銘のある石仏像が発見されている。こうした現存実例が限られていることを踏まえたうえで、都から離れた四川地域における仏像の造立や信仰の実態について究明することによって、南朝仏教美術の一端が具体的に解明できる。さらに、当時の四川地域についての理解がより深くなることだけではなく、裏付けられる実例が不十分である都の建康と、同様に仏教の隆盛地であった長江中流の荊州地区における仏教美術についてどう理解するかという問題に対しても、極めて重要であると思われる。四川出土の南朝仏教造像をめぐってさまざまな議論が展開されてきた。ただし、従来の成都出土石仏に見られる天王像のほとんどは小さな脇侍像である。そのため、図像の細部を考察することはとても困難といえる。また、図像が簡略化されるなど造形上の制約も想定される。それによって、これまでの研究では、本稿に取り上げる下同仁路の二体の天王像について詳細な図像分析が行われなかった。次章から下同仁路の二体の独尊天王像の像容を確認し、とりわけ着装の鎧の形式的特徴に注目したい。二 下同仁路天王像の像容概要〔図1〕の像は現在成都市博物館の南北朝常設展示室に展示されている。本像は、右脚を踏み下げて宣字形の台座に坐り、剣らしいものを執る姿である(以下、遊戯坐像とする)。足元には一体の鬼形像が坐し、両手で天王像の右足と左膝を支えている。発掘当初は胸部を境に上下二つに割れていたが、修復により接合された。淡紅色の砂岩製で、総高は32.5センチ。台座は上下一段の框を設け、長辺17センチ、幅9.5センチ、高さ8.7センチ。全体に薄い黄色を施した痕跡が残り、衣襞の所々に金色の線がみえ― 144 ―― 144 ―

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