鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
155/549

花のある三段の基壇部に四角形の塔身が載り、塔身の各面に円拱龕を設けている。塔身の屋頂は覆鉢を設けずに平らに作り、中央と四隅に五本(四本だけ見える形)の相輪が立つ。以上見てきたように、遊戯坐像は明光鎧を着けているのに対し、倚坐像は裲襠鎧を着けている。両像は異なる持物を手にしているが、高い頸甲をつけること、方座に坐すこと、足元に鬼形像がいることといった図像表現の共通点が確認される。したがって、両像はかなり近い図像から由来していると考えられる。三 成都出土天王像の着用頸甲と新天王図像の比定まず、下同仁路の二天王像はともに正面で突き合わせる形の頸甲を着用していることに注目したい。頸甲は、喉元や首を保護する防具として使用され、鎧の一部である。現在みられる中国内地の南北朝時代の武人俑や武装人物像では、頸の周りにはネッカチーフのような布を巻き、先端を胴甲に隠す表現が一般的である。たとえば、河南省鄧県の南朝墓とされる墓から出土した画像磚に表された武装人物〔図5〕は、鎧をまとい、頸部に高い襟の表現があるが、その先端部はやはり胴甲に入り込むのである。しかし、成都出土の南朝仏像における鎧装人物にはこうした表現を見出せない。すなわち、硬さのある材質で作った高い頸甲をつけ、留具で留めた先端を正面に見せるようにしているのである。たとえば、普通4年像には、鎧をまとい、しかもこうした正面で突き合わせるタイプの頸甲を着けた像が三体確認できる。前述した正面右側の天王像〔図3〕は、頭光を負った頭部が破損しているが、高い頸甲を回し着けて正面で留める点は、下同仁路の二体の天王像と全く同じである。また、背屏の側面の左右にもそれぞれ頭光をもつ武装像一体〔図4〕を配置し、両像の身振りは多少異なるものの、正面で突き合わせる特徴的な頸甲付きの鎧をまとうことが確認できる。同じ万仏寺址出土の独尊の天王立像〔図6〕にも、上腕部に肩布を掛けながら、同形の頸甲をもつ明光鎧を着けていることが認められる。また、万仏寺址出土の中大通五年造釈迦文仏像の両側面、西安路出土の三仏並坐像の右側面にも、同形の鎧を着装した立形の人物がみられる。つまり、こうした正面で突き合わせて留めるタイプの頸甲を表すことは、梁時代の四川地域の武装天部や人物像における定型表現だったと考えられる。このような頸甲を念頭に置いて改めて成都出土の南朝仏教造像を確認すると、万仏寺址から出土した菩薩双身像の側面には浅浮彫による絵画的表現の天王像がみられる。この石像の背面には観音経変とされる仏説話図が浅浮彫されていて注目されるが、左右両側面は上下八つの小画面に仕切られており、両側面とも最下部に円形の頭― 146 ―― 146 ―

元のページ  ../index.html#155

このブックを見る