鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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光をもつ一体の人物を表す。左側面像は双樹を背景に岩座に遊戯坐し、右手に戟のようなものを執る。一方の右像は岩座に胡坐し、方形の持物を右手に載せている。ここで左側面の像の服装〔図7〕をみると、かなり簡略されてはいるが、正面で留めた頸甲と鎧を着装していることが確認できる。そして、頭光を負って台座に坐す姿は下同仁路の二天王像を想起させる。そうすると、この像も同種のものと比定してよいだろう。李静傑氏によれば、当石像の背面と左右両側面は仏伝の内容を表し、とりわけ両側面の合計十六場面は『普曜経』によって画かれたものという。そして当該の着鎧像の尊格については樹神王であるとした(右側の像は未詳とする)(注3)。南北朝時代には、樹神王はしばしば十神王とよばれる群像中の一体として表された。しかし、現存する中国内地の作例をみると、双樹を背景とするのではなく、樹神王の右側に一樹を配するか、一樹に両手を添える構図で表現されるものがほとんどで、これらの着鎧像は樹神像ではなく天王像とみるべきだろう。ただし、本作例に表している天王像はどのような意味を持っているのかについて具体的な検討が必要だと思われる。四 下同仁路の二天王像の鎧の形制下同仁路の二天王像は異なる種類の鎧を着装しているのである。遊戯坐像が着けている裲襠鎧について、後漢末の劉熙が撰した『釈名』の「釈衣服第十六」に「裲襠其一当胸、其一当背也(注4)」(裲襠とは、その一は胸に当て、その一は背に当てる) と語釈している。楊泓氏の研究によれば、後漢時代には胸部と背部の二枚から成る鎧がすでに用いられたが、その鎧は脇下部がつながっているので「裲襠」とはいえない。最初の裲襠鎧は三国時代に登場し、その後南北朝時代に最も普及した鎧になったのである(注5)。これを裏付けるのは、中国の北方・南方の各地で発見された多数の武人俑が裲襠鎧を着装していることである。たとえば、ロイヤル・オンタリオ博物館に所蔵される北魏皇族であった元熙(482前後~525)の墓から出土した武人俑は、その代表例である。肌着と半袖の上衣に色彩を施した鎧をまとい、肩の帯で前後二枚の胴甲を連結させ、腰部も帯で固定している。遊戯坐像が着装している鎧は、この武人俑の特徴と一致し、裲襠鎧の着装が明らかである。しかしながら、小札を細かく表した武人俑と異なり、本天王像にはこの表現が見出せない。仏教側の作例としては、龍門石窟蓮華洞の南壁の仏龕の左側に立つ天王像〔図8〕と麦積山石窟121窟の武装人物が裲襠鎧を着けることが知られている。しかし、これらの像には四川地域の作例のように正面で突き合わせて留めるタイプの頸甲を着ける表現が確認できない。― 147 ―― 147 ―

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