鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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それに対して倚坐像は、両胸に丸いプレート状のものが表されており、いわゆる明光鎧を着装している。明光鎧について、日光のように反射して光ることから名付けられたとする楊泓氏の解釈は、多くの研究者から賛同を得ている。明光鎧は南北朝時代から用いられ、隋唐に至ると甲冑の主流となった(注6)。唐の行政法典である『六典』に列記された十三種類の甲冑のうち、明光鎧は筆頭に置かれている。実作例としては、北魏が最末期を迎えた太昌元年(532)に逝去した将軍王温の墓から出土した武人俑の例があげられる。本像の鎧は、胸甲の左右の胸部に大きな楕円形のプレートが貼り付けられており、鳩尾部で固定のための帯が十字形に交差している。この時期に武人俑は従来主流であった裲襠鎧から明光鎧へと着装の変化がみられる傾向が指摘されている(注7)。こうした鎧をまとう武装人物は、墓に副葬した俑のほか、ボストン美術館所蔵の北魏時代の寧懋石室に線刻された武人像や、墓室の壁画にも表現されている。さらに、東魏・北斉の造像碑や石窟にみられる台座下部の神王像〔図9〕でこの鎧制を踏襲しているものは少なくない。南北朝時代の後期に入ると、墓葬美術のみならず、仏教美術もこの意匠を積極的に取り入れ、多様な媒体を介して武装人物を表現する際に明光鎧を着装するようになったことが認められる。下同仁路出土の二体天王像はこうした時代の流れのなかで誕生した作であろう。ところで、現存の漢訳仏典において、鎧を着装する天王の登場は西晋永嘉2年(308)の5月に竺法護が訳した『普曜経』に遡る。本経巻13「告車匿被馬品」(注8)によれば、四天王のうち東方天王の提頭頼吒、南方天王の毘留勒叉、北方天王の毘沙門は鎧装であることが確認できる。また同経の「出家品」には「見四天王、鬼神、羅、健沓等、諸龍王衆、皆被鎧甲(注9)」とあり、四天王のほか、いわゆる護法神がいずれも鎧甲を着けるとされる。先述のとおり、下同仁路の二像がそれぞれ南北朝時代に流行した裲襠鎧と明光鎧を着装することを確認した。ただし、正面で突き合わせて留める頸甲を付けた武装天部像は、より西の地に見出せる。中央アジア(西域北道)の石窟では四人を揃った天王像が涅槃図に頻出する。高く立てた襟をもつ鎧はクチャ周辺で好まれた一種の甲制であることが指摘されている(注10)。たとえば、シムシム石窟第30窟の中心柱の背後の奥壁に画かれた涅槃図〔図10〕では、入滅した釈迦の後ろに梵天、帝釈天や四天王が見られる。武装の四天王は豪華なターバン冠飾をつけ、高い襟を立てて正面で突き合わせている。中国式の裲襠鎧や明光鎧と異なり、胸甲は左右二枚となり、胸部で留めた短いベストのような形をしている。また、胸甲で帯を交差させるこの地独特の表現が見出せる。四天王のほか、日天や守護神をはじめ、当地で出土した兵士の立体像― 148 ―― 148 ―

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