鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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注⑴ 天正の年号は551年の8月から11月まで、ただ4か月間のみ用いられた。⑵ 李「略論中国早期天王図像及其西方来源─天王図像研究之二」『麦積山石窟芸術文化論文集(上)』蘭州大学出版社、2004年、498-499頁。霍巍「論成都出土的早期仏教天王像」『考古』2018年8期、107-111頁。佐藤有希子『毘沙門天像の成立と展開』中央公論美術出版、2022年、39頁。⑶ 李静傑「四川地方における南朝期の仏伝彫刻について」『密教図像』19、2000年、76-77頁。⑷ 『四部叢刊初編』、六五冊。⑸ 楊泓「中国古代的甲胄─下篇」『考古学報』1976年2号、60-63頁。⑹ 前掲注⑸楊泓氏論文、68-70頁。においても同様の西域式の鎧が確認される。こうした鎧は西域から中国内地に伝わってきた。早い作例としては、炳霊寺石窟169窟北壁の北魏期とされる脇侍像〔図11〕が挙げられる。主尊釈迦の左側に立つこの像は西域式の鎧をまとい、頸甲を正面で留めている。同じく北魏期とされる金塔寺西窟にある釈迦三尊像の左側に同形式の鎧を着けた像が見出せる。そのほか、莫高窟第257窟の中心柱正面にある脇侍像と第263窟の北壁に描かれた脇侍像にも同様の鎧が確認できる。しかし、成都出土の諸像に比べると、正面で突き合わせるタイプの頸甲をつける点は同じだが、胴甲の形式が明らかに異なる。以上のとおり、下同仁路像は中国伝統の裲襠鎧と明光鎧を着けているにもかかわらず、両者とも西域から伝来した頸甲を付けているのである。また、両像が出土したことで、着用の鎧は南北朝時代に使用された甲冑であることが明らかとなった。おわりに以上のように、本稿は南朝時代の作とされる下同仁路新出土の二体の天王像、及び四川成都出土の天王像を取り上げ、これらの像は正面で突き合わせて留めるタイプの頸甲を着装していると指摘できる。このような頸甲は西域から伝播したものである。遅くとも梁時代の四川地域に至ると、こうした頸甲が付く鎧は武装像の一種の定型的な表現となった。また、下同仁路の二像はそれぞれ中国伝統の裲襠鎧と明光鎧を着けている。これらは中国に以前から存在した二種類の鎧が仏教美術に取り込まれ、形成されたものである。ただし、同時代の天王像と比べると、下同仁路の二天王像が方座に坐していることや、倚坐像が両手で宝塔を奉持すること等特有の図像表現が見られる。これらの問題は今後の課題として考察を進めたい。― 149 ―― 149 ―

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