の住人という「アウトサイダー」による芸術とみなされていたと考えられる。ところで「日本のアウトサイダー・アート」展の出品者のうち小笹、福村、吉川の3名は知的障害者施設みずのき寮の寮生であった。みずのき寮は、社会福祉法人松花苑みずのきによって1959年に京都府亀岡市に開設され、1964年からは美術家で美術教師の西垣籌一の指導の下に絵画教室が始まった。そこでは「何をどう表現するのかの最も重要な部分には立ち入らないように厳に自戒し、表現技法のみに限って教える」(注5)という方針のもとに作品が制作され、それらが塩田の目に留まり、「日本のアウトサイダー・アート」に出品されることになった。それらの作品は、「パラレル・ヴィジョン」展に際して講演と解説のために来日していた、アール・ブリュット・コレクションのキュレーターのジュヌヴィエーヴ・ルーランの興味を惹いた。ルーランはみずのき寮を訪問し、1000点を超える作品と対面し、それらへの賛辞を惜しまなかった。そして1994年、小笹、吉川、高橋滋、二井貞信、堀田哲明、山本悟の32点の作品がアール・ブリュット・コレクションに収蔵された。アール・ブリュット・コレクションに「アジアから初めて作品が永久収蔵された」(注6)この出来事は、国内のアール・ブリュット作品の調査・発見の先駆けになったと考えられる。それは、国内にアール・ブリュット作品が紛れもなく存在することが示された重要な出来事であり、その後の国内での調査・発見の先鞭をつけたと言えるだろう。2.「ジャポン」展と「アール・ブリュット・ジャポネ」展2006年初頭、当時滋賀県社会福祉事業団企画事業部長であった北岡賢剛は、数点の作品やボーダレス・アートギャラリーNO-MA(現ボーダレス・アートミュージアムNO-MA、以下NO-MA)が作ってきた図版や展覧会カタログを持って、日本人の作品がアール・ブリュット・コレクションでどのように評価されるか確かめに行った。当時館長であったリュシエンヌ・ペリーはそれらに興味を持ち、アール・ブリュット・コレクションとNO-MAの連携事業が行われることとなった。ペリーは2006年に来日し、NO-MAに集められた作品や、日本各地の作品と制作現場を調査し、出品作品の選定をした。そして、2008年にアール・ブリュット・コレクションで「ジャポン」展、日本国内で「アール・ブリュット/交差する魂─ローザンヌ アール・ブリュット・コレクションと日本のアウトサイダー・アート」展が開催された。それぞれの地で展覧会が開催されたわけだが、とりわけ国内展で重要な点は、アー― 166 ―― 166 ―
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