注⑴ 服部正「障がい者アートとしての和製アール・ブリュット」、『民族藝術』34号、民族藝術学会、⑷ 同上書、13頁。⑸ 西垣籌一『無心の画家たち─知的障害者寮の30年』、日本放送出版協会、1996年、16頁。⑹ 高橋慎一「ピカソを超えた芸術家たち」、『週刊金曜日』457号、金曜日、2003年、43頁。⑺ はたよしこ「浮上しはじめた日本のアール・ブリュットたち」、はたよしこ編著『アウトサイ⑻ 北岡賢剛、齋藤誠一編『アール・ブリュット・コレクションとボーダレス・アートミュージア結⑵ 古賀は「アウトサイダー・アート」に影響を受けた芸術家として出品された。⑶ 塩田純一「異界の人─日本のアウトサイダー・アート」、塩田純一他編『日本のアウトサイダー・アート : パラレル・ヴィジョン─20世紀美術とアウトサイダー・アート』(展覧会カタログ)、世田谷美術館、1993年、7頁。ムNO-MAとの連携事業報告書』、はれたりくもったり、2009年、39頁。⑼ アール・ブリュット・ジャポネ展カタログ編集委員会編『アール・ブリュット・ジャポネ』、⑽ 辻並麻由編『ボーダレス・アートミュージアムNO-MA10年の軌跡─境界から立ち上がる福本稿では、日本におけるアール・ブリュット観の変遷を1990年代以降の3つの出来事との関連から見てきた。1993年の「パラレル・ヴィジョン」展を機に国内でアール・ブリュット/アウトサイダー・アートは広く知られるようになったが、それは「内なる『外部』」の住人という「アウトサイダー」による芸術とみなされていた。また同展を機にみずのき寮の作品がアール・ブリュット・コレクションに収蔵され、国内にもアール・ブリュット作品が存在することが示され、その後の調査・発見につながっていった。2008年の「ジャポン」展、特にその国内展は、アール・ブリュット・コレクションの作品と日本のアール・ブリュット作品は同等のものだという見方をもたらした。同展は芸術の枠組みの中での理解をもたらしたと考えられるが、その後「アール・ブリュット・ジャポネ」展の凱旋展を機に「障がい者アート=アール・ブリュット」という図式が形成され、さらにアール・ブリュットはある種の社会福祉運動として捉えられるようになった。そして東京2020オリンピック・パラリンピックに伴う東京都によるアール・ブリュット振興は多様性、包摂といった言葉と共になされているが、それは同大会のスローガンやそれに伴う政治目標と密接に結びついていた。このように社会的事象に影響を受けつつ、日本国内では欧米とは異なるアール・ブリュット観が形成されてきたと考えられる。2018年、101-7頁。ダー・アートの世界─東と西のアール・ブリュット』、紀伊國屋書店、2008年、17頁。現代企画室、2011年、138頁。― 170 ―― 170 ―
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