鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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博物画が描かれるようになる。長崎を経由してヨーロッパ、とくにオランダの動植物図譜が輸入され、日本の動植物画の画風にも大きく影響を及ぼした。近代になると蕃書調所において高橋由一が博物画を描写するほか、本草学から国際的な近代生物学へとパラダイムシフトする中で、生物学研究者が学名を残し図によって情報化する必要性がうまれた。写真で記録する以前の時代にあっては、新種の記載をするために正確で精緻な描写ができる画家の存在が不可欠だったのである。それらの博物図には視覚イメージが含有され、「もの」の美的イメージを人々に与えることに繋がっていった。博物図は、欧米においては絵画や標本画として扱われ、美術史と科学史双方の文脈から研究がすすめられてきた。一方、日本においては、近世までの動物図・植物図についてはすでに幾多の研究成果が挙げられている。しかしながら、近代の博物図は幅広い美術の一分野であるにもかかわらず、これまでその美術的な特質に焦点をあてた研究はほとんどみられていない。当時の画家たちが生物学研究者のために博物画を描いたことを公表しない場合も多い。しかしながら、実際には数多くの日本画家・洋画家が携わり、美術的側面をもつ博物図が生み出されていたと考える。2.伊藤熊太郎の経歴について伊藤の経歴や画歴については不明なことが多い。生没年についても長く不明であったが、筆者が令和2年(2020)に外交史料館で行った調査(注2)により、「元治元年八月二十三日」に生まれ「士族」であったことが判明した(注3)。ただし藩名は不明である。また肖像についてもこれまで不明であったが,明治43年(1910)発行の雑誌『実業少年』に掲載されていることを発見した(注4)〔図1〕。伊藤はどの時点で入門したかは不明だが、中島仰山に入門している(注5)。仰山の本名は舟橋鍬次郎であり、天保3年(1832)に生まれた。文久2年(1862)ごろに幕府の開成所に入り洋画や写真技術を研究、博物図譜の研究に携わっていた(注6)。仰山は明治5年(1872)に博物局が創設されると博物局出仕となり博物画を手掛けた。明治14年(1881)には《サケ》を描いており、松浦啓一によれば鮭の雄が成熟した時の特徴である「鼻曲がり」が正確に描かれているという(注7)。同じく明治14年(1881)、伊藤は東京帝国大学動物学教室で画工となる(注8)。明治22年(1889)に発行された《東京共進会出品図》(注9)は「中島仰山/伊藤熊太郎画」とあることから二人の共作であることがわかる。伊藤は明治30年(1897)ごろまでは農商務省水産講習所で水産動植物を描いていた― 185 ―― 185 ―

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