鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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醤)保持者に認定された近代を代表する漆芸家である。現在の香川県高松市亀岡町に生まれ、明治36年(1903)香川県立工芸学校用器漆工科を卒業した後、大阪の山中商会で塗りや加飾法を修得。玉楮象谷を考究し、大正2年(1913)頃、濃淡を表現できる「点彫蒟醤」を創案する。昭和8年(1933)「工会」を結成し主宰。昭和13年(1938)第2回新文展で《彫漆石南花ノ圖手箱》で特選。戦後は「苦味会」を結成、昭和31年(1956)重要無形文化財(蒟醤)保持者となる。磯井如真は、官展に美術工芸部門が設置される以前から、農展及び商工展(注3)という全国的な展覧会において実績を上げている(注4)。より複雑な図柄を表現できる「点彫蒟醤」を生み出したのもこの頃で、新規的な意匠を生み出すことの重要性を理解し、実現していた(注5)。さて、昭和2年(1927)に帝展に美術工芸部門が設立される。初めて如真の作品が入選したのは、昭和4年(1929)第10回帝展のことである。出品作《草花模様蒟醤手筥》は弟子が勝手に出品を決めたものであったため、如真としては意図せぬ出品であった。翌年は落選となるが、もう一度入選するために制作したのが《彫漆蒟醤草花文鼓箱》である。本作は玉楮象谷による《堆朱二重彫御鼓箱》〔図2〕(嘉永6[1853]、香川県立ミュージアム蔵)を意識して制作されたことが指摘されている。箱面全体に施された草花文や、玉楮象谷の鼓箱の朱と対になるような黒漆からそのことが理解できるであろう。玉楮象谷の鼓箱と比較してみると、草花文が単純化され幾何学的である点が磯井如真の鼓箱の特徴といえるであろう。さて、このことについて「当時ヨーロッパから装飾様式として移入された影響が見られる(注6)」、「古典研究に加えて、独自の意匠や模様、技法を考案し、作品制作を行っていた様子が伺える(注7)」とこれまで評価されてきた。磯井如真がこの幾何学的な草花文に至った理由については、当時の流行、特に帝展での流行を背景にしていることを指摘しておきたい。美術工芸部門が設立されて初めての開催である第8回帝展、北原千鹿、佐々木象堂、高村豊周らの作品が特選、また審査員には津田信夫がいた。彼らの作品は、それ以前に西洋から伝わったアール・デコ等の影響を受けた幾何学的な模様や、素材をそのまま見せるような意匠が特徴的である。磯井如真は玉楮象谷の大作を基礎として、当時の流行を取り入れた意匠を試みようとしたと考えられる。次に昭和13年(1938)第2回新文展で特選を受賞した《彫漆石楠花之圖手箱》〔図4〕(注8)について見ていきたい。本作は宮内省の買い上げとなり、イラン王国皇― 196 ―― 196 ―

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