太子御成婚記念として贈られたために、実見することはできないが、後に依頼されて昭和16年(1941)に制作された《石楠花之圖手筥》〔図3〕と同じく彫漆で表現した漆板を用いて仕上げられていて、石楠花の花が器体全体を一つの画面のようにして配置されている。《石楠花之圖手筥》を見ると微妙な花の色も表現されており、《彫漆蒟醤草花文鼓箱》のような箱の模様として配された幾何学模様とは全くちがったものとなっている。花びらもぼかし塗りされ、微妙な濃淡が見られ、絵画的な表現となっている。同じ回の特選の小松芳光《漆器湖畔小景小屏風》は、屏風を画面として漆で描いた絵画のようである。また、審査員の松田権六《漆器鷺蒔絵棚》も棚の全面を平面とした作品であったり、同じく審査員であった北原千鹿の《鶉文銀彩壺》においても、2羽の鶉が叢にいる風景が壺に彫り出されていたり、と絵画的な表現が目立つ。南有里子氏によると、昭和3年(1928)第9回帝展にて、山崎覚太郎が《衝立》を出品して以来、屏風や衝立、パネルといった漆芸の平面作品は増加していったという(注9)。また磯井如真も昭和11年(1936)文展で《サボテンにホロホロ鳥彫漆飾棚》(高松市美術館蔵)も絵画的な表現で選奨となっている。《彫漆石楠花之圖手箱》はその気運に乗りながらも、器物全体を一つの画面とするような意匠となっている点で工芸的な表現といえるであろう。本作以降、器物全体に展開していく意匠を用いている作品はほとんどみられない。しかし、第二章でふれるが、本作は少なからず音丸耕堂の作品にも影響を与えていると考えられ、讃岐漆芸にとっては重要な作品といえよう。このように磯井如真の官展出品作を見ていくと、評価されるための戦略が練られていることが理解できるだろう。その後の作品を見ても、磯井如真は展覧会の傾向に合わせて意匠や図案を変化させており、それについては第三章で検討する。第二章 音丸耕堂の官展出品作について次に音丸耕堂の官展出品作について見ていきたい。音丸耕堂は香川県高松市古馬場町に生まれ、石井磬堂(注10)の下で木彫を学び、玉楮象谷に傾倒し彫漆家を志す。昭和7年(1932)第13回帝展に、《彫漆游蟹手箱》が初入選、昭和17年(1942)第5回新文展で《彫漆月之花手箱》〔図5〕が特選、昭和30年(1955)重要無文化財(彫漆)保持者に認定された、磯井如真と並ぶ讃岐漆芸の代表的な作家である。音丸耕堂は、官展での特選を強く求めており、昭和17年(1942)の第5回新文展で《彫漆月之花手箱》を出品し特選を受賞するまで様々な試行錯誤を行う。筆者は出品― 197 ―― 197 ―
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