「あくまで僕自身の作品で、一コマ一コマのデザインが皆自分の創作で、竜の形式にしても鳳凰の形式にしても、頭部といい足といい、体の紋様といい、すべて僕自身が考えたもので、色は黒に朱の漆であった(注17)」と解説を加えているが、日展に出品された絵画的な作品と比較すると、伝統的な意匠を踏襲しているといえるであろう。第一章で紹介した《彫漆蒟醤草花文鼓箱》〔図1〕は、玉楮象谷の《堆朱二重彫御鼓箱》〔図2〕を基にしているように、磯井如真は新規的な図案や技術を求めながらも、伝統的な図案、技法を踏襲するということを意識的に行っている。特に、重要無形文化財(蒟醤)保持者として蒟醤作品しか出品が許されなかった(注18)伝統工芸展においては、伝統的な線彫りを多用し、色数も抑えた古典的な作品を出品している。さて、モティーフについて見ていくと《蒟醤龍鳳凰文八角香盆》と鳳凰と龍が旋回するという構図を同じにする昭和17年(1942)頃制作の《存清六角香盆》〔図9〕の鳳凰は、伝統的な日本の絵画によく見られる、振り返り宙を舞う鳳凰の型を踏襲している。この体勢の鳳凰は他讃岐漆芸作家の作品にも多く見られる。玉楮象谷の《印筥》〔図11〕の内箱の側面には、空を飛び後ろを振り返るようにしている鳳凰が蒟醤の技法で描き出されている。藤川黒斎《存清饌盒》(明治23年[1890] 頃、高松市美術館蔵)や石井磬堂《紅花緑葉桐鳳凰之圖香盒》(昭和3年[1928]頃、高松市美術館蔵)、さらに音丸耕堂の初期作品《彫漆紅花緑葉硯箱》〔図10〕等にも同じような鳳凰が見て取れる。この鳳凰の図様については、江戸狩野の絵師たちが、四季花鳥図を基にした桐鳳凰図の左隻〔図12〕に見られる飛翔する鳳凰の図像が、狩野派の絵師の作品だけでなく、浮世絵や版本等に見られることから〔図13〕、その図様は江戸時代の画壇に広く普及していた(注19)。玉楮象谷が仕えた高松藩は江戸の狩野派との結びつきが強い。前述したように、玉楮象谷《堆朱二重彫御鼓箱》の下絵は狩野永笑親信が描いている。玉楮象谷の仕えた高松藩は、水戸徳川家の流れを組む松平家が藩主となっていた。それもあってか、御用絵師は江戸狩野の系譜を継ぐ絵師たちが代々仕えたようであり、初代の高松藩御用絵師である狩野常眞は、狩野安信に学んだ。狩野探幽の甥の常信が祖である、江戸の狩野派の中で最も力を持った木挽町狩野家の絵師たちの作品も松平家には多数伝わっている。また法然寺(香川県)に伝わる《源氏物語図(若菜 紅葉賀)屏風》(注20)は、木挽町狩野家の狩野養信が描いたものである。高松藩に仕えた玉楮象谷は、江戸狩野の絵画や絵手本を目にする機会は多かったであろう。そ― 200 ―― 200 ―
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