鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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注⑴ 住谷晃一郎『讃岐漆芸─工芸王国の系譜』エーアンドエー・コミュニケーションズ、2005年 ⑷ 大正8年(1919)第7回農商務省図案及び応用展覧会にて褒状、大正9年(1920)第8回展に⑽ 石井磬堂(1877~1944)は香川生まれの木彫家、漆芸家。讃岐彫りの名手として明治末期から⑵ 本論で言及する「官展」は、明治40年(1907)の文部省美術展覧会(文展)を初めとする帝国美術院展覧会(帝展)や昭和12年(1937)に再び発足した文部省美術展覧会(新文展)、戦後は日本美術展覧会(日展)と続く明治末期から昭和戦前期にかけて開催された官設公募美術展のことを指す。⑶ 農展とは大正2年(1913)に農商務省が開催した「農商務省主催図案及応用作品展覧会」のこと。大正7年(1918)には「農商務省工芸展覧会」に改称、大正14年(1925)農商務省が農林省と商工省とに分離したため、「商工省工芸展覧会」(商工展)となった。⑸ 納富介次郎によって設立された香川県立工芸学校で学んだことにより、絵画や図案の訓練を積んだ磯井如真だからこそ、新技法の開発や意匠改良に意欲的に取り組むようになったことが、佐々木千嘉氏によって指摘されている。(佐々木千嘉『革新の讃岐漆芸』美巧社、2021年)⑹ 『没後50年 磯井如真展』高松市美術館、2014年、30頁⑺ 前掲書、佐々木千嘉『革新の讃岐漆芸』、84頁⑻ 官展に出品された現在実見できない作品については、『日展史 第8巻帝展編3~第13巻新文展⑼ 南有里子「官展の美術工芸部門における漆芸平面作品について:昭和前期の山崎覚太郎の活動して、その後続く讃岐漆芸の作家たちも過去の作品や絵画を参考にして図案を考えていたことが理解できる。おわりに磯井如真、音丸耕堂の作品を見てきたが、帝展で特選を受賞するという目標の下、技術を磨き追求するというより、新規性がありなおかつ当時の流行に合致した意匠を求めていたことが推測できる。展覧会という枠組みの中で評価されるための作品を制作するということが、意匠・デザインに多大な影響を与えたことが理解できた。また、2人に共通していた点として挙げられるのは、写生を重視していた点である。その一方で、磯井如真は、玉楮象谷やそれ以前の漆工芸作品を規範にした制作を目指していたことが推測される。特に、伝統工芸展に出品する作品については、意匠も技法も伝統的なものをあえて選んでおり、その図案の源泉には江戸時代の狩野派まで遡る可能性も示唆した。等て三等賞の評価を受けた。編1』(社団法人日展、1982~84年)を参考にした。を中心に」『デザイン理論』70号、大阪大学、2017年大正期にかけて活躍した。― 201 ―― 201 ―

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