けではないため、本作が実際に巡礼とかかわっているか否かを確かめることはできず、その具体的な機能を突き止めるには至っていない。そこで本稿では、先述した、レーンによる「巡礼ガイド」を手元に《受難伝》が観られていたとする指摘を踏まえ、そのガイドがどのようなものであったかを検討する。5.「霊的巡礼」の成立と「霊的巡礼ガイド」本稿では新たに、《受難伝》〔図1〕の機能を、図像的に類似する挿絵を有する、『サルッツォの時禱書』fol. 210r〔図2〕の祈禱文から考察する。そのためにまず、ネーデルラントにおける「霊的巡礼」の成立を概観し、《受難伝》と同時代の「霊的巡礼ガイド」などを確認する。キリスト教の主要な巡礼地はエルサレムの他にもローマとサンチャゴ・デ・コンポステーラが存在するが、「キリストの受難と復活」の舞台である点でエルサレム巡礼の重要性は特権的であると言えよう。中世末期にエルサレム巡礼への欲求が高まっていったのは以下のような経緯からである。エルサレム巡礼自体はキリスト教公認以前から既に行われてはいたが、11世紀末以降、十字軍遠征が数多くの民衆をエルサレムに送り込み、聖地巡礼は慣例的な宗教行事となっていく。そしてキリストの人間性や「受難」への関心が高まり始め、13世紀には受難文学が隆盛する。偽ボナヴェントゥーラの『キリストの生涯についての瞑想』やザクセンのルドルフスによる『キリストの生涯』はその代表的な例である。こうした信心のための手引書が、人間としてのキリストの「受難」を追体験することを促した。14世紀にネーデルラントで起こる「新しい信仰」運動はこの流れの中に育まれ、以下に挙げるような「霊的巡礼ガイド」が成立することとなる。ここで、《受難伝》研究において挙げられてきた「霊的巡礼ガイド」や巡礼記を確認する。まず1471-90年頃に執筆された、先述の「ベトレム殿」の巡礼ガイドは、「悲しみの人とアルマ・クリスティ」から「紋章」までの33の留と歩数、それに応じた祈禱および黙想が、一週間で達成されるように構成されている(注14)。「受難」の全体に留を割り振っているという点で、《受難伝》に類する同時代的現象として注目に値する。ただし、この「ベトレム殿」のガイドは各場面間の距離を歩数で厳密に定めている点が、具体的な歩数を想定しにくい《受難伝》の表現とは相いれないように思われる。別の例として、ブルッヘの商人アンセルモ・アドルネスは、息子とともに1470年から71年にかけてエルサレム巡礼を行い、息子がその旅行記を記した。またアンセルモは、巡礼から帰還後、アドルネス家がブルッヘに建立したエルサレム聖堂を改装した。― 209 ―― 209 ―
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