が活かされることで、さらに強められていると考えられる。このような臨場感がある一方で、本作はたとえば幕末にフェリックス・ベアトによって撮影された愛宕山からの江戸のパノラマのような写真とは異なり、意図的なデフォルメが施されていることも見逃すことはできない。それは、17の書き入れのある建物などは、それと分かるように描かれている一方、江戸城東側の外堀から日本橋や神田付近の広い土地に書き入れはなく、金の霞を多用して狭い範囲に圧縮されていることからもわかる。特に江戸城西丸の石垣は、実際よりも高く、大きく、明らかに誇張して描かれている。このように、一見ある地点から見た景観を目に映るままに表しているように見えるものの、描きたい場所とそうでない場所を取捨選択し、地理的な整合性は保ちつつもデフォルメしていることがわかる。ただし、江戸城の4つの門のうち桜田門のみ位置が右寄りに移動しており、虎御門内、あるいは西丸下あたりが広く表されるよう、意図的に改変していると考えられる。それでは、本作の発注者は誰であろうか。虎ノ門を正面に捉え、江戸城西丸の石垣と、それを取り囲む武家屋敷地が広く表されていることから、幕府を守る立場である大名、なかでも虎ノ門を出入りする大名が注文主として想定される。その可能性として、本図の視点の位置に藩邸があり、一峨が実際に席画に訪れたことのある武蔵川越藩の名が真っ先に挙げられるだろう。また、本作で画面ほぼ中央にあたり、先に見た桜田門の位置操作によって広く表されることとなった西丸下にあるのが、忍藩の上屋敷で、鳥取藩の嘉永5年(1852)の資料(注3)には、武蔵国忍藩主が江戸の鳥取藩邸に来客として招かれ、一峨が席画を行っている記事が見られることから、忍藩の可能性も考えられるだろう。また、本作において湾岸の書き入れが多く、海岸部への眼差しが顕著であることは、当時、外国船の出現にともない、海の外に対する意識が強まりつつあった時代背景と深く関係していると考えられる。江戸に近い浦賀沖に外国船が姿を見せた文政年間(1818~30)以降の海防に関する動きを、本図を描く地点に藩邸のある川越藩と、門の位置を操作して広く表されている忍藩との関わりの中で見てみたい。文政5年(1822)にイギリス船サラセン号が浦賀沖に、天保8年(1837)にはアメリカ船モリソン号が江戸湾近くまで現れるなか、浦賀奉行の指揮のもとで江戸湾警備の軍事面の主力を担っていたのが他でもない川越藩と忍藩であった。天保13年より川越藩は三浦半島の警備を、忍藩は房総沿岸の警備を命じられ、嘉永6年(1853)のペリー来航により急務となった品川の台場警備では、川越藩が第一の台場の、忍藩は第三の台場の警備にあたっている。その際川越藩は、高輪にあった松平駿河守の下屋敷― 219 ―― 219 ―
元のページ ../index.html#228