鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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をもらいうけ陣屋とする一方、江戸湾に面した芝金杉の鳥取藩下屋敷は、第二の台場を部署とした会津藩松平家の陣屋地となり、鳥取藩も江戸湾警備の一環として、現在の横浜市にあたる武州本牧を任されている。この当時、川越・忍両藩主はもとより、鳥取藩、さらに藩のお抱え絵師であった一峨においても、否が応でも海の向こうを意識せざるをえない状況になりつつあったと考えられ、江戸湾を広く視野に入れた本作にはその時代背景が如実に表されていると言えよう。したがって、本作において湾岸に高い注目を示し、地理的な整合性を持ってランドマークが多く布置されていることは、海防に対する意識とつながっていると考えられ、本作の注文主が川越藩、あるいは忍藩である蓋然性はきわめて高いように思われる。本作に表されているのは金泥の霞が控えめに光る極めて穏やかな光景であり、ひときわ大きく描かれた江戸城の石垣は江戸市中の平和が幕府の威光のもとにもたらされているように見える。さらに海防との関わりを鑑みれば、本作において外患に対しても揺るがない幕府の絶対性が表象されているとみることができるだろう。2.江戸の都市景観図の展開本項では、「江戸風景図額」と同じく大名を注文主とする江戸景観図を2点紹介し、各時代において同じ江戸という都市の描写がどのように表現されているのかを概観し、江戸景観図の流れに「江戸風景図額」を位置付け、その特徴を明らかにする。まず、江戸初期に江戸の都市空間を描いたものとして、国立歴史民俗博物館が蔵する「江戸図屏風」がある〔図3〕。17世紀前期、明暦大火(1657)以前の作とされる六曲一双の金屏風で、注文主は諸説ある(注4)が、いずれも大名クラスの人物が想定されている。描かれている景観は、遠くは富士山や川越から江戸湾を含む江戸城下までで、日本橋や神田などの町人地も収められているが、大きくクローズアップされているのは、江戸城とその周りの大名屋敷、将軍家の菩提寺である寛永寺や増上寺などである。将軍の鷹狩りの様子や、朝鮮通信使の江戸城への来訪などが描き込まれており、特に江戸城を中心として堅牢で独立した区画をもつ大名屋敷が集中的に取り上げられているのが大きな特徴となっている。江戸城下の構図は、寛永期(1624~44)頃成立の「武州豊島郡江戸庄図」以降の江戸の地図と共通していることが指摘されており(注5)、斜投象図と呼ばれる、消失点に向かって短縮することなく平行線によって構成される図法で表されており、江戸という新興都市の景観を表すのに、地図をもとにしながら日本の伝統的な平行遠近法の手法を用いていることがわかる。このような手法や金雲の多用は洛中洛外図屏風に類するものであり、江戸という都市の景観が― 220 ―― 220 ―

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