鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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視覚的ではなく観念的に表現されている。金や濃彩による煌びやかな彩色や、小さく描き込まれた大勢の人々の描写は江戸の活気を伝えており、「江戸図屏風」は江戸の繁華な様子とともに将軍家およびそれを守る大名家の権威や力を誇示することが意図されていると考えられる(注6)。武家の事象に特化した「江戸図屏風」は、京の名所を網羅した洛中洛外図屏風とは異なり、定形化し描き継がれていくことはなかったが、ようやく江戸後期になって広く一般の人々にとって共有しうる江戸の都市イメージが登場する。それは浮世絵師でのちに津山藩のお抱え絵師となった鍬形蕙斎によって享和3年(1803)に一枚物の摺りものとして世に出された「江戸名所之絵」で、この「江戸名所之絵」をもとに津山藩主の依頼のもと、蕙斎が文化6年(1809)に制作したのが六曲一隻の「江戸一目図屏風」(津山郷土博物館蔵)〔図4〕である。「江戸一目図屏風」はもとの摺りものの形を踏襲し、一双ではなく一隻の形態で完結するほか、紙本に淡彩を施した淡泊な画面は、洛中洛外図屏風の形式を受け継ぐ江戸前期の「江戸図屏風」からは遠く隔たっている。構図や遠近法についても「江戸図屏風」とは異なり、隅田川東部の上空から西の方角を向き、透視図法的な空間理解のもと都市の景観を捉えた鳥瞰図となっている。隅田川や、浅草寺、寛永寺や神田明神などの有名寺社や新吉原や不忍池などの名所が多数描き込まれているのが特徴で(注7)、通りや橋を行き交う無数の人々や川を往来する夥しい数の舟が速筆で細やかに描かれており、城下の活気が鮮明に伝わってくる。高い視点から俯瞰した蕙斎の江戸景観図は、名所案内図としての性格も有しつつ、活気に満ちた繁華で理想的な大都市像が表現されていると言えよう(注8)。「江戸名所之絵」は何度か再版され、文化年間には亜欧堂田善の手で銅版画として出版されているほか、多数の類作が生まれている。富士山をバックに東から西向きに主要名所を網羅しながら江戸城下を表した景観構成は、当時の人々の江戸イメージによく合致し、広く人口に膾炙したものと思われる。そうした中で嘉永年間(1848~54)頃に制作された一峨の「江戸風景図額」では、蕙斎画にみる高空からの視点ではなく、より身体に近づいた低い視点をとっている。そこでは蕙斎画にみるような俯瞰構図によって名所の情報を多く表すことのできる説明的な描写よりも、現実に近いリアリティのある視覚が重視されていると考えられる。また、ある特定の地点からの眺めをもとにした具体的な実景となっており、一般的な名所とは異なる、川越藩あるいは忍藩と想定される大名の対外的な事情が反映された、個別的な景観図となっている。部分的に意図してデフォルメを施すものの、透視図法等の遠近法を用いて自然で実際の視覚に近い空間が表現されており、幕末に至― 221 ―― 221 ―

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