鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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りオーダーメイド化された私的な性格の強い江戸景観図が誕生したと言えよう。3.「江戸風景図額」誕生の背景最後に、「江戸風景図額」と江戸の名所図会や風景版画との比較を行い「江戸風景図額」の特異性に触れ、そうした特異な景観図が生まれることとなった背景について大名の用命による庭園画制作との関わりから若干の私見を述べたい。① 名所図会や風景版画との比較ここでは「江戸風景図額」と近い時期に制作された斉藤月岑編・長谷川雪旦画の『江戸名所図会』(天保5〈1834〉・7年刊)と、歌川広重の江戸風景版画にみる江戸城と大名屋敷の描写に着目する。まず、『江戸名所図会』には650点に及ぶ挿図が描かれており、冒頭から二番目の挿絵〔図5〕に、「江戸東南の市街より内海を望む圖」という、比較的広域な風景を捉えた一図がある。江戸城北西あたりの上空から日本橋、佃島を中央軸として遠景右側に本牧、左側に安房(現千葉県南部)と上総(現千葉県中央部)を配した鳥瞰図で、水平線上に房総半島を収める構図は「江戸風景図額」と近いが、「江戸名所之絵」と同様に視点がかなり高く、地上の視点は想定しがたい。また、江戸城は画中に収めず、江戸でもっとも繁華な日本橋付近の下町を中心に、密集する町並みが広がっている。『江戸名所図会』において江戸城が大きく取り上げられることはなく、大名屋敷については立派な門前を正月元旦に登城する大名行列を描いた「元旦諸侯登城之図」や「霞か関」〔図6〕にて大きく描かれているのみである。霞ヶ関坂の下から見て右が広島藩浅野家、左が福岡藩黒田家の上屋敷であり、堅牢な屋敷の前の通りを行き交う武家や僧侶、商人など多様な人々の姿が俯瞰的に捉えられている。次いで、多くの江戸名所に取材した歌川広重の風景版画には、江戸城周囲の大名屋敷地が描かれたものが管見の限り40近く確認された(注9)。その多くは、『江戸名所図会』と同じく霞ヶ関坂を描いたもので、霞ヶ関は将軍家のお膝元である江戸の顔を象徴するものとして広く認知され、江戸の名所として定着していたと言えるだろう。坂の下から仰ぎ見る構図〔図7〕だけでなく、坂の上からの眺望〔図8〕や横から俯瞰した構図など複数のバリエーションが見られ、季節や時刻、行き交う人々の風俗に変化が付けられている。説明性の強い俯瞰構図は少なく、透視図法を用いて実際に描かれた景観と地続きの場所に立って眺めたような自然な視覚が多い。このような広重の風景版画にみる透視図法にもとづく低い視点による空間構成は、同時期に江戸で活― 222 ―― 222 ―

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