動した一峨の「江戸風景図額」と共通するものであり、蕙斎の「江戸名所之絵」誕生時よりもより合理的な視覚を獲得しつつある同時代的傾向を示している(注10)。広重の風景版画で描かれた江戸城周辺の武家地は、霞ヶ関以外には溜池横の葵坂や外桜田、九段坂がある。しかし数は少なく、いずれも通り、すなわち誰もが目にすることが可能な外側からの景観が描かれているのみである。これは大勢の人々が見ることを前提としている名所図会や版画などの出版物においては、江戸城や大名屋敷を描くことの規制が大きかったためと考えられる。上記のような出版物の例を踏まえると、「江戸風景図額」の中で溜池周辺の虎御門内と呼ばれる場所に建つ屋敷内の様子が描かれていたり、ある程度の地理的整合性をもちつつ江戸城(西丸)および大名屋敷を広く眼下に収めた「江戸風景図額」は、出版物ではないとは言え、かなり特異な景観図であるように思われる。これは、注文主が大名クラスの人物であるだけでなく、本作がもと絵巻の形態であったことからも推察されるように、蕙斎の「江戸一目図屏風」よりも、さらに限られた範囲の、個人的な鑑賞が想定されていたからこそ可能な表現であったのではないだろうか。② 庭園画とのかかわりさらに「江戸風景図額」にみる特殊性は、多くの御用絵師たちが将軍家や大名の領内や庭園を描いていることと無縁ではないと考える。江戸時代後期から、山水癖とよばれる人々(風景を愛好する大名や全国の名山などを描かせた商人など)が現れていることはよく知られており、各藩の大名が領内の名所を描かせた勝景図が各地で誕生しているほか(注11)、寛政5年(1793)には松平定信が相模・伊豆の沿岸巡視に文晁を随行させ、「公余探勝図巻」(東京国立博物館蔵)を制作させている。また、市域面積の約7割が武家地によって占められていた江戸には大小さまざまな庭園が設けられた千カ所以上の武家屋敷があり、18世紀末以降、大名庭園を描いた庭園画の制作が盛んとなった。尾張徳川家の江戸下屋敷(戸山山荘)や松平定信の白川藩下屋敷(浴恩園)などを描いた谷文晁は、その流れを牽引した主要絵師で、遠近法や透視図法を駆使した実景描写は人気を博し、庭園の景観を写実的に描く様式が広まることとなった(注12)。鳥取藩絵師で、文晁の影響を強く受けた一峨(注13)も、三方が海に面し、眺望のすぐれた庭園として知られた芝金杉にあった壮大な鳥取藩の下屋敷の庭園を複数描いている(「因州侯庭園図」東京国立博物館蔵〔図9〕および個人蔵)。そこでは、邸内の雲濤楼から庭園とその先に開ける海の眺望が捉えられて― 223 ―― 223 ―
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