鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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⑻ 次の文献においても、蕙斎画に“理想的な都市”としての江戸のイメージが重ね合わされていることが提唱されている。大久保氏前掲注⑺論考、ヘンリー・スミス「鳥瞰図の構造」『朝日ジャーナル』5月8日号(通巻1478)、岸文和「菊屋版《うきゑ京中一目細見之図》について」『國華』第1214号、1997年1月⑸ 内藤昌「都市図屏風」『日本屏風絵集成 洛中洛外』第11巻、講談社、1978年⑹ 塚本学氏論考(「武家の都会像の形成─都市イメージとしての江戸図屏風─」『国立歴史民俗博物館研究報告』第60集、1995年3月)には、江戸図屏風が「都市の繁華を、権力者の権威を中心に描く、みやこ的世界での都市像」として表現されていることが指摘されている。⑺ 大久保純一氏論考(「江戸の大観イメージ成立に関する一考察」(『西のみやこ、東のみやこ 描かれた中近世都市』展図録、国立歴史民俗博物館、2007年)では、蕙斎画にみる東側からの構図は、江戸城を中心に、鑑賞者の目線に近いところに旧来の名所が多い江戸城の東側を取り込もうとした際もっとも適した視点であったことが指摘されている。⑼ 『広重江戸風景版画大聚成』(小学館、1996年)掲載の版画1409点より。⑽ 大久保純一氏論考(「《名所江戸百景》考」『国立歴史民俗博物館研究報告』第100集、2003年3月)では、安政3年(1856)から同5年にかけて出版された広重の《名所江戸百景》において、名所絵的な俯瞰による構図に代わり、次第に人間の自然な視覚に近い水平視によって捉えられた構図が増えているという詳細な分析がなされている。⑾ 例えば徳島の蜂須賀治昭が鈴木芙蓉を御用絵師に取り立て「鳴門十二勝真景図巻」(寛政8年〈1796〉、徳島市立徳島城博物館蔵)を、紀州の徳川治宝が谷文晁に「熊野舟行図巻」(文化元年〈1804〉、山形美術館蔵)を描かせるているほか、鳥取藩でも鳥取城近郊の景色を描いた「因幡八景図画帖」(鳥取県立博物館蔵)が藩絵師によって作られている。⑿ 『美しき庭園画の世界─江戸絵画にみる現実の理想郷』静岡県立美術館、2017年⒀ 一峨における文晁の影響については、拙稿「沖一峨における画風の多様性について─人的交流図版出典図1・9 『沖一峨─鳥取藩御用絵師─』展図録、鳥取県立博物館、2006年図2・7・8 『広重江戸風景版画大聚成』小学館、1996年図3 『大名たちの庭園─江戸藩邸と諸藩城下の庭園風景─』展図録、鳥取市歴史博物館、2004年図4 『都市を描く─京都と江戸─』、国立歴史民俗博物館、2012年図5・6 国立国会図書館デジタルコレクション    御酒被下候 夜喰掛合之支度差出候 一 同沖一峨/因州様御家来也/被召呼参上 参上之間ニおゐて    鱠付四菜之御料理吸物一肴三種御酒被下候 夜喰    掛合之支度被下候      但月日本文両人より御会尺被下同日江記候⑶ 『江戸御用部屋日記』嘉永5年10-12月(鳥取県立博物館蔵、資料番号03084)中の12月4日⑷ 川越城主・酒井忠勝説(村井益男「江戸図屏風の歴史的背景」『江戸図屏風』平凡社、1971年)、松平信綱説(黒田日出男「誰が、何時頃、江戸図屏風をつくったのか?」『王の身体 王の肖像』平凡社、1993年)、紀伊徳川家の祖・頼宣とする説(古川敏夫・古川大輔「『江戸図屏風』の描く世界─制作者と制作目的に関する研究─」『國華』第1457号、2017年3月)などとの関連から」(『美術史』164号、2008年3月)参照。― 225 ―― 225 ―

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