り目立たない存在であるが、フェリペ2世の従兄弟にあたる神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世を父に、またフェリペ2世の妹マリアを母にもつ彼女との結婚は、オーストリアとスペインの両ハプスブルク家の絆を強化するという点で、当時から大きな期待が寄せられていた(注13)。さらに、この2人は王妃が感染症で急逝する1580年までのおよそ10年の結婚生活で5人の子どもをもうけた。特に1571年12月に誕生した長男フェルナンドは、ドン・カルロス亡き後王位継承者が不在であったスペイン王家にとって待望の嫡男であり、ティツィアーノやパッラシオ・ミケーリといったイタリアの画家たちによる関連作品が示すように、それは当時のスペイン宮廷において最大の出来事であった〔図9、10〕。ナバレーテは1571年から1575年までマドリードに滞在している。この間には王太子フェルナンドが生まれ、王宮近くに位置するサン・ヒル聖堂で洗礼式が行われたほか、1573年にはサン・ヘロニモ聖堂で王太子として正式に宣言がなされるなど(注14)、その地で催された宮廷行事に触れる機会は十分にあったと考えられる。また、1570年のアナ王妃とフェリペ2世のマドリード入市式は見ることができなかったと思われるものの、当時の様子を記した書物が1572年に出版されていることに加えて〔図11〕、彼がマドリードで工房を間借りしていた先輩画家ディエゴ・デ・ウルビーナがその式典の装飾に携わっていたことも重要であろう(注15)。こうした中でナバレーテは本作の制作にあたり、ウルビーナによる同主題作品〔図12〕から基本的な人物像や構図は引用しつつも、その舞台をエル・エスコリアル修道院の国王夫妻の部屋を思わせる場所に変更していることは重要である。また、特に灰色がかった壁、窓、カーテンといった要素はティツィアーノやサンチェス・コエーリョによる宮廷肖像画〔図13〕によく用いられた型であることに鑑みると、本作には王家の宮殿をも兼ねていたエル・エスコリアル修道院にふさわしい表現が選択されていると考えられる。とりわけ、本作の制作がハプスブルク家のアナとフェリペ2世が結婚した翌年(1571年)に開始されたことを考えると、本作の主題的特徴からそのようなスペイン宮廷をめぐる状況が反映されている可能性は十分あるだろう。これを踏まえて次章では、ナバレーテの本作と王妃との関連性について、王妃の信仰や設置場所である聖具室の性質から検討したい。3.王妃アナ・デ・アウストリアの信仰と、聖具室への王族訪問マリアの母、聖アンナは未婚のおとめが女性聖人の多数を占めるキリスト教において、一族を育て上げた母でありながら聖性を保持した希有な存在として、子孫繁栄を― 231 ―― 231 ―
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