㉓ 江戸時代における張思恭受容─伊藤若冲筆「釈■三尊像」を中心に─研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 博士課程後期課程 太 田 梨紗子1、はじめに張思恭は、室町時代の座敷飾の秘伝書『君台観左右帳記』において「上」と格付けされ、「人物・仏像・弥陀」を描く画家とされた宋代の人物である(注1)。しかし、『君台観左右帳記』に記されたためか、室町時代以降の渡来仏画にその名を付会された作品が多く現存するものの、様式にバラつきがあり、実際の作と比定できる作品はごく少数である。さらに、張思恭という人物について記した直接的な小伝類も発見されていない。そのためか、「伝説の画家」とも称され、張思恭への研究は立ち遅れてきた。しかし、張思恭という名前自体は江戸時代の文献にも見受けられる。さらに、江戸中期の画家・伊藤若冲(1716−1800)の畢生の大作「動植綵絵」と共に描かれ、寄進された「釈■三尊像」(相国寺)は伝張思恭筆「釈■三尊像」(東福寺旧蔵、主尊:クリーブランド美術館、脇侍:静嘉堂文庫)の模写作品である。梅荘顕常(1719−1801)が記した「若冲居士寿像碣銘」にも「又模張士(ママ)恭■文文殊普賢三幅」と張思恭の写しであることが明示される(注2)。今では張思恭の名を知る者は少ないが、江戸時代において、その名は権威ある「宋元画」の画家の一人として価値あるものだったのではないだろうか。本論では張思恭の江戸時代における評価を探ると共に、その画風も比定されていたのか、若冲「釈■三尊像」並びに伝張思恭作品自体の考察も行うことで、江戸時代における張思恭、ひいては「宋元画」受容の一端を示したい。2、「張思恭」の先行研究まず、張思恭という画家並びに名前が付された作品については、井手誠之輔氏が日本における宋元仏画の研究で度々取り上げてきた(注3)。井手氏は、張思恭という名は中国の画史書には見受けられないものの、「阿弥陀三尊像」(京都・禅林寺)、「阿弥陀三尊像」(京都・廬山寺)の両方に禅林寺本では「張思恭筆」、蘆山寺本に「大宋張思恭筆」と署名があること、その相貌表現の近似から、双方を張思恭とその工房の作品であると比定し、張思恭の実在を提唱した。さらに、張思恭は南宋・寧波において延慶寺の天台浄土教を背景とした阿弥陀画像を専門に手がける仏画師であったと推測する。また、井手氏は、禅林寺本と蘆山寺本は、阿弥陀如来がそれぞれ逆手の来迎― 239 ―― 239 ―
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