印で正面来迎の立像、説法印の座像と異なり、彩色表現も差異があるものの、相貌表現は近似していることから、この振れ幅を工房作の範囲内と解釈し、他者救済を旨とする禅林寺本、観想性がつよい蘆山寺本の性格の違いから、張思恭が半僧半俗の絵師であったと考える。しかし、その後、張思恭の名が付された作品群が膨大で、張思恭と判断できうる新たな作品も発見されておらず、中国の文献にも存在しないためか、依然として張思恭研究は等閑視されてきた。現代ではこのように不遇な状況下にあるが、『君台観左右帳記』から伊藤若冲「釈迦三尊像」にいたるまで、近代以前の日本では張思恭への評価はどのようなものだったのだろうか。3、中世から近世の「張思恭」評価近世以前の張思恭評価については、寿舒舒氏による中世の文献に記載される中国画人の研究から窺い知ることができる(注4)。寿氏は中世文献を「往来物」、「古辞書」、「御行記・御成記」の三つに大別し、そのうち往来物では牧谿、月湖と並んで頻繁に「思恭」の名が載ることを指摘している。往来物で思恭の名が載るのは『喫茶往来』、『遊学往来』、『異制庭訓往来』、『新札往来』、『桂川地蔵記』、『尺素往来』である(注5)。『遊学往来』は「思恭釈迦三尊」、『異制庭訓往来』は「思恭釈迦三尊四睡圖三笑畫」、『新札往来』は「張思恭彩色之釋迦」、『桂川地蔵記』に「思恭之釋迦、張思恭宋人」、『尺素往来』は「座席本尊者思恭出山釋迦」といずれも中国画人の記述のはじめの方に思恭の名と画題を記す。さらに『喫茶往来』では「左は、思恭の彩色の釈迦、霊山説化の粧巍々たり。右は、牧谿の墨画の観音、普陀示現の姿蕩々たり」と思恭の釈迦が牧谿の観音と対になる作品とされている。『喫茶往来』においては、張思恭は牧谿と並ぶ画家として位置付けられたのだ。この6冊から、張思恭は格高く、著色の釈迦如来(釈迦三尊図)、出山釈迦図、四睡図、三笑図を描く宋人画家と認識されていたことが分かる。特に著色の釈迦と結びつけられていたのだろう。それに対して、古辞書では、寿氏は思恭の名前を挙げなかったが、『撮壌集』(亨徳3年〔1454〕成立)、『温故知新書』(文明16年〔1484〕)にそれぞれ張思恭の名を見出せる。『撮壌集』下では「繪部」に「張思恭 佛人形」、『温故知新書』では「チ 氣形門」に「張思恭」と載る(注6)。また、御行記・御成記では、『御物御画目録』そして『君台観左右帳記』に張思恭の名前と画題が記される(注7)。『御物御画目録』では「布袋」「維摩」「五祖六祖 佛光禅師賛」が思恭の作品として載り、「布袋」が2回登場する。『君台観左右帳記』には写本によって記述に微細な異同があるが、「上」― 240 ―― 240 ―
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