護国寺、洲崎、梅屋敷、よし原今日となってはほとんど無名と思われる地も少なくないなか、たとえば北斎が「富嶽三十六景」(天保初年頃)で描く青山円座松がここですでに描かれていることあたりは注目してよかろう。広重「東都名所坂づくしの内」で描かれる「江戸見坂」(天保後半頃)の眺望も、本書がすでにとりあげている〔図1〕。画賛の蜂蜜丸なる人物の狂詠に「山の手へかよふこぐちの江戸見坂みてのびあがるはなの下まち」と、山の手の端のこの地で伸び上がって望む眼下ならぬ鼻の下の「花の」下町の眺望が詠まれることからすると、この周辺を往来した人びとにはすでにその眺めのよさはよく知られていたのであろう。3.「名所」の記号を切りとる定番の名所が確立する過程で、描く側・見る側の共通認識として、それぞれの地を表す型ができあがってゆくことはすでに指摘がある(注10)。隅田川から土手の向こうに三囲稲荷の鳥居の上部がみえる景はおそらくもっとも名高く、そのさまが盛んに描かれただけでなく、河東節「隅田川舟の内」(享保頃成)に「森つゞく若葉に植ゑし鳥居こそ笠木ばかりを三囲の、伸び上がらねば見えぬなり」(注11)と唄われたことでも知られる。また、名所中の名所といえる日本橋については、江戸城と富士山との組み合わせが定番となったことについて、詳論が備わる(注12)。それ以外にも少なからぬ地にその場所であることを示唆する事物との組みあわせが成立するのがこの天明・寛政期前後であった。たとえば桜樹が並ぶなかに石碑が立つのは飛鳥山、太鼓橋と藤棚は亀戸天神といった型のことだといえば、浮世絵に少しなじみのある方なら了解されよう。そのなかで、本稿では、まず、名所各地を描くにあたってその地を俯瞰するような全景、ないし風景と呼び得る程度の広さを収めた構図を取ることなく、そうした各地の特徴といえる事物をいわば記号として画面に入れこむ手法が、18世紀にすでに発達しつつあったことに着目したい。これは、歌川広重が晩年の代表作「名所江戸百景」などで多用する手法であるが(注13)、浮世絵における名所の表現方法としてはこの時期に始まっているということになる(注14)。たとえば、目黒不動を見てみよう。この地は、西村重長『絵本江戸土産』、また蕙斎北尾政美『絵本吾嬬鏡』〔図2〕など、長い急な石段と垢離場で表されることが定着しつつあった(図2では見にくいが、ノドの左の下側に垢離場が、その右の山門の― 16 ―― 16 ―
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