鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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(注11)。周山の『画宝』には「羅漢従者」〔図1〕が、雪鼎の『金玉画府』には「布袋真像」〔図2〕が載る。小林氏は、この2図について、「羅漢従者」は明代末の奇怪な人物を描く画家・呉彬「羅漢図巻」(鍋島報效会)から、「布袋真像」は明書『三才図会』(1607年成立)からの写しであることを明らかにし、詳細が不明な絵図に伝説的な仏画師・張思恭をあてたと考察する。小林氏は触れていないが、先述の中世の記録を考えると、「布袋真像」が張思恭とされたのは、『御物御画目録』に彼の画題として「布袋」が2回も登場するからだろう。やはり、中世における張思恭の記述は江戸時代半ばにおいても有効に働いていたと考えられる。また、「羅漢図」を思恭とした背景には円覚寺の伝張思恭「五百羅漢図」の存在などがあるかもしれない。いずれにせよ、この2つの画譜は、若冲が「動植綵絵」と「釈迦三尊像」24幅を寄進した明和2年の数年後に刊行されており、その様式は誤解されつつも、若冲「釈迦三尊像」制作当時の中国絵画認識において張思恭は存在したことを示している。4、張思恭作品と伊藤若冲「釈迦三尊像」画譜にみえる張思恭の様式は目茶苦茶なものであったが、それでは実際の張思恭作品はどのようであったのだろうか。本稿では、調査が叶った中で、若冲「釈迦三尊像」主尊〔図3〕、東福寺旧蔵本「釈迦三尊像」主尊〔図4〕、二尊院本「釈迦三尊像」(京都・二尊院)〔図5〕、張思恭の基準作とされる禅林寺本「阿弥陀三尊像」〔図6〕及び、森橋なつみ氏に張思恭作品ではないかとご教示いただいた張思本筆「天台大師像」(南宋時代、本圀寺)〔図7〕の相貌表現を比較していきたい。まずは基準となる禅林寺本を見ていこう。本作品には修理銘が残されており、「享保十三戌申年十月十五日 修覆 演空良義」「弥陀三尊 思恭筆 禅林寺什物天空修補之」と旧裏書に記されている。演空良義は当時の禅林寺住職であり、若冲生前には既に本作品が禅林寺に収まっていたことが分かる(注12)。主尊である阿弥陀如来の顔貌の特徴を述べると、黒目を中心に落ち込ませた目蓋は伏し目がちにみえ、卵形と四角形の間のような顔の形をしており、輪郭線は繊細な強弱をとる〔図8〕。そして、この顔貌表現に本圀寺の「天台大師像」は非常に似通っている〔図9〕。西上実氏は、本作の署名を「大宋張思本筆」としたが、今回の調査において「本」ではなく、「恭」と判明したことから、署名は「大宋張思恭筆」であろう(注13)〔図10〕。禅林寺本は著色、「天台大師像」は墨画淡彩と違いはあるが、顔貌表現の相似や、その優美な筆致から、本作品を張思恭の基準作の候補として取り上げたい。それでは、若冲が模写した東福寺旧蔵の「釈迦三尊像」はどうであろうか。東福寺― 242 ―― 242 ―

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