鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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旧蔵本のうち、主尊の容貌を見ていこう〔図11〕。顔の輪郭や伏し目がちな点は似ているが、基準作からは少々離れているように見受けられる。東福寺旧蔵本は南宋時代から時代を下って元時代の作、あるいは高麗仏画として比定されており、張思恭周辺の作とみるには難しい(注14)。しかし、名品ではあるものの張思恭とは画風を異にする二尊院本〔図12〕と比較すると、実際の思恭様式と比較的近しいと言えるだろう。江戸時代には東福寺に存在したことも判明しており(注15)、若冲が禅林寺本をも見たかは定かではないが、なるべく近い作品を選択した可能性はある。若冲自身は「動植綵絵寄進状」(宮内庁三の丸尚蔵館)において、「又嘗て張思恭の画きし迦文々殊普賢の像を観たるに巧妙は比ぶる無く、心に模倣せんことを要め、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二十四幅を作る」と、東福寺旧蔵本を質の高さから選んだとしている(注16)。しかし、若冲の模写作品と東福寺旧蔵本を比較すると、その顔貌表現は大きく異なる〔図13〕。眼窩や鼻梁には陰影が施され、描線も朱から茶色に変更され、その姿は黄檗禅林の頂相画を彷彿とさせる。若冲はなぜこのような変更を行ったのだろうか。若冲および同時代の人々の中国絵画への姿勢を探ることで考察してみたい。5、江戸時代における中国絵画そもそも、伊藤若冲はその絵画学習の過程において、まず狩野派の師に学び、それでは狩野派の域を出ないため、宋元画の模写をはじめたが、それが一千幅にも及んだあと、物を直接写さないと宋元画の画家には及ばないと写生をはじめたと伝えられる(注17)。若冲における中国絵画の模写については、佐藤康宏氏がその意義について考察し、文人画家・柳沢淇園(1703-1758)の随筆『ひとりね』にみえる唐絵についての一文を例にとりあげた(注18)。 繪は唐繪を學ぶべし。いかにといふに、日本にても名畫と云程の畫人、ことごとく中國を學びたるもの也。本朝畫史を見べし。今、古法眼元信も何を學びしにや。馬遠・夏珪・牧谿などを學びしといひ、其外巨勢金岡・小野篁・明兆典主などはじめ、かずなき名畫とよばるゝ人、すべて中國よりまなぶにあり。いつのほどぞや、専門などで養朴・探幽などはじめ、草率(ソマツ)の墨姿を好みて、一躰あはく書出したれども、墨畫はまだなり、彩色にいたりてはらちもなき事也。其もとをしらねばそのはづの事とはいひながら、淺ましき事也(注19)佐藤氏は、淇園が当時流行した長崎派の濃彩花鳥画を愛好したため、中国絵画の濃彩― 243 ―― 243 ―

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