や細密描写を抜いて淡白な表現を選択した探幽を批判したとする。そして若冲もまた、東福寺旧蔵本の濃密な描写に惹かれ模写作品として選択したと考察する。おおむねそうであろうし、淇園の主張や若冲の学画過程からは、江戸時代における中国絵画への姿勢を指し示す記述として、明確な唐絵志向が読み取れる。この唐絵志向はしかし、本朝の絵画を擁護する人々に批判される姿勢でもあった。その批判の一つとして、和田長兵衛『机の塵』(幕末~明治写、西尾市岩瀬文庫)所載の入江石亭(1766-1839)の「古畫論」を紹介したい。入江石亭は大坂の国学者・入江昌喜(1722-1800)の養嗣子であり、書画蒐集・鑑定家で有名で、室町時代以降の諸名家の筆跡鑑定では右に出る者はおらず、石亭が折紙を付した作品は数倍に値が上がったと伝えられる(注20)。「古畫論」は「完(ママ)政己未初夏」、つまり寛政11年(1799)に論じたもので、内容は真贋論や古画新画の価値、漢畫(中国絵画)と本朝の畫(日本絵画)について述べられる。本稿では漢畫と本朝の畫についての部分を抜粋したい。石亭はまず、「近世専ら漢畫を翫んで本朝の畫を愛せざる者あり」と日本絵画を顧みない中国絵画愛好家の存在を指摘する。そして以下の記述に続く。漢畫と雖豈に悉く名手と云事あらんや却て本邦には在世に能手の名を/異域に絶す人多し先つ雪舟或は古法眼拙宗秋月友松等是之/漢畫も宋元の畫は可尚なれども真蹟ある事稀之只畫躰の似/たるを見て舜挙と云ひ牧渓として傳ふる多し本朝の畫と雖周文/雪舟如拙などは皇都の宮院に真蹟稀に有と雖其他有る事至て/稀なり只贋作のみ家々に傳来し珍重す然るを況や海外の畫/加ふるに年歴久しきものをや其上漢土は畫人も多く故に名蹟に至っ/ては贋造も多かるべし宋元は知らず明末清朝の畫を翫ばんより只/本邦の古畫は雅趣の遥に超越せるを知らずして只漢畫と云へば/盡く妙也と意得宋元の贋物或は明清の末畫を重んずる事/如何なる理ぞや是れ耳を尚ひ眼を卑ふすと云者歟漢土のみを/穿鑿し本朝の事に疎きは所謂父母の國の事を知らざる人論ずるに/及ばざるべし(注21)石亭は「宋元の畫」の価値を認めつつも、「真蹟」は非常に稀であるとし、優れた「本邦の古畫」を差し置いて「宋元の贋物」或は「明清の末畫」を重んずる人々のことを「耳を尚ひ眼を卑ふす」と批判する。「漢土のみを穿鑿し本朝の事に疎きは所謂父母の國の事を知らざる人論ずるに及ばざるべし」という記述には国学者の養子としての立場を考慮する必要があるが、本朝の畫を擁護するにあたって漢画を好む者を舌鋒鋭く批判するほど、彼らの漢画への熱愛ぶりがあったことが窺い知れる。この対立につい― 244 ―― 244 ―
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