鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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ては、文人画家・中林竹洞(1776-1858)の『竹洞画論』(享和2年〔1802〕)を参照することで、さらに江戸時代中後期における状況が把握されよう。 皇国の書画を愛する者は、各癖あり。癖とは、和画を好む者あり、唐画を愛する者ありて、各かたよるくせ有をいふ也。近古は土佐・狩野二家の流のみ成しが、近代南宗の一派ひらけてより、人、和漢を以てこれをわく。書画を好むとならば、和漢のへだてなく、よき画を愛すべき事なるに、今時の画好む者は、各かたよるくせ有て、唐画を好む者は和画をそしり、和画を好む者は唐画をしりぞく。是、皆、画の本意をしらぬゆへ也。和画にてもよきはよく、あしきはあしき也。唐画にをけるも又しか也。(中略)真に書画を好む者は、唐にても皇国にてもあれ、筆跡の見事なる物をゑらびてこれを愛す。是、真の賞鑑家也(注22)竹洞は、書画に親しむなら和漢のへだてなく名画を愛好すべきだと主張し、和画、唐画それぞれに偏り、もう一方をそしる人々を諫める。竹洞の論と照らし合わせると、淇園は唐画寄り、石亭は和画寄りといったところだろうか。石亭、竹洞の2つの記述は国学が隆盛しはじめる19世紀初頭前後に書かれており、伊藤若冲が「動植綵絵」並びに「釈迦三尊像」を描いた宝暦・明和期の1750年代後半~1760年代前半では淇園のような唐画愛好者の方が優勢だっただろう。石亭が言う「只漢畫と云へば盡く妙也と意得宋元の贋物或は明清の末畫を重んずる」人々が多かったと推測される。若冲の交流関係の多くは臨済僧、黄檗僧や漢学者であり、唐画愛好者と目される集まりであったことを鑑みると、中国絵画において古来より牧谿と並ぶ上位の格付けをされた「張思恭の著色の釈迦」を写すという行為自体が自らの作品への権威付けでもあったとみなせるのではないだろうか。さらに「若冲居士寿像碣銘」で「又模張士(ママ)恭迦文文殊普賢三幅」を記した相国寺の僧侶・大典顕常は、博識の人物で、その著作は漢詩や茶書など多岐にわたる(注23)。大典ならば、近世以前の文献における張思恭の評価を知り抜いていただろう。若冲はまず狩野派に学び、宋元画を一千幅模写してから写生に至ったと記したのも大典であるが、先述の淇園や石亭、竹洞の主張を鑑みるに、若冲の絵画学習についての記述は、当時珍重された「宋元画」を土台とし、そこに流行の南蘋派のような濃密な写実を足した画風が若冲の作品だとする評価でもあったろう。唐画愛好家たちにとって、まず、「宋元画」を基本としたこと、そして明清画の要素を盛り込んだという点で若冲の作品は評価されたと解釈できるのではないだろうか。― 245 ―― 245 ―

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