注⑴ 藤田経世『校刊美術史料続編 第二巻』校刊美術史料続編刊行会、1985年、230頁⑵ 村田隆志編「伊藤若冲関係資料抄録・大意」『生誕三〇〇年記念 若冲』日本経済新聞社、2016⑶ 井手誠之輔『日本の美術3 日本の宋元仏画』至文堂、2001年⑷ 寿舒舒「日本中世の古記録から見る中国画人・絵画の記載」『東アジア文化交渉研究』5号、⑸ 『喫茶往来』は林屋辰三郎他編『日本の茶書1』(平凡社、1971年、122-124頁)、『遊学往来』と『新札往来』は『続群書類従 13下 文筆部 消息部』(続群書類従完成会1959年、1147頁・1160頁)、『異制庭訓往来』と『尺素往来』は『群書類従 6』(経済新聞社、1899年、492頁・伊藤紫織氏による「唐画」画家としての伊藤若冲の研究では、若冲は竹洞の『画道金剛杵』(享和2年)「古今画人品評」で下上品の唐画に分類されるなど、「唐画」の画家として認識されたことが推定されている(注24)。若冲は当時において、「宋元画」を学び、新しい中国絵画である南蘋派や黄檗絵画の画風を取り入れた「唐画」を描く画家だったのだ。やはり、中世から近世までの張思恭の位置付けをみても、東福寺旧蔵本が優れた名画であるという理由以上に、張思恭筆の着色の釈迦であるということは江戸時代半ばにおいて重要だったと考えられる。若冲は『君台観左右帳記』の宋人画家・張思恭作品を模写し、新たな表現として明清画由来の写実性を上乗せすることで、「宋元画」の画家に並ぶ画技を誇ろうとしたのではないだろうか。6、おわりに以上で、張思恭という伝説の画家の評価並びに伝来作品への考察を行い、張思恭の名が中世から近世を通して権威をもち、若冲が自らの絵画作品への権威付けとして東福寺旧蔵本「釈迦三尊像」をその模写作品に選択した可能性を指摘した。牧谿に比肩しうる画家とされながらも、その名声が仇となり忘れ去られていった張思恭は、日本における東洋美術史上最も不運な画家の一人であろう。その実在を確定することは難しいが、少なくとも、思恭様ともいえる張思恭の様式は蘆山寺本や禅林寺本、「天台大師像」の存在から、江戸時代でも一部の人々には認識されていた可能性がある。これら思恭様式の作品を中心として、伝張思恭作品を位置付けていくことも出来るだろう。今後の研究も、中林竹洞が主張するように、中国絵画史・日本絵画史のどちらか一方ではなく、両者を比較検討することで進展させていきたい。年、303-308頁関西大学文化交渉学教育研究拠点、2012年、473-488頁― 246 ―― 246 ―
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