イシドーロ聖堂のある場所に再建した。1063年、レオン・カスティーリャ王フェルナンド1世(1017-1065)とその妻、王妃サンチャ(c. 1018-1067)により、聖イシドルスの聖遺物がもたらされ、盛大な奉遷式が執り行われた。フェルナンド1世とサンチャは聖遺物奉遷に際して新たに聖堂を建造、これがサン・イシドーロ聖堂と呼ばれることとなった〔図5〕。1970年代に、ジョン・ウィリアムズによって発掘調査がなされ、その後の聖堂拡張工事の概要が明らかとなった(注5)。フェルナンド1世による最初の聖堂は、娘の王女ウラーカ(1034-1101)、そして孫にあたりレオン・カスティーリャ女王となったウラーカ(1080-1126)の時代に、東南に向けて拡張される。また、聖堂の西側に「パンテオン」と呼ばれる王室霊廟が〔図2〕、そしてその上階として、トリビューンと呼ばれる礼拝のための一室が建設された。11世紀後半、聖堂の西側に増築されたパンテオンは、約8.4メートル(27.5フィート)四方の正方形の平面をしており、東西に2つ、南北に3つ、計6つの長方形の区画に区切られている〔図6〕(注6)。霊廟として用いられるパンテオンは、この建造物の1階部分にあたり、重厚なヴォールト天井の上、2階部分には、トリビューンと呼ばれる、王族のための礼拝スペースが設けられた。聖堂西側に隣接する二層式の霊廟というコンセプトが、どのようにして生まれたのかについては、建築図像学的な解釈が提示されてきた。それらをまとめたローズ・ウォーカーによれば、後期古代の霊廟建築が、パンテオンの源流にあるという(注7)。これら霊廟建築は、正方形や円形といった、集中式平面を持ち、ヴォールトの架構された埋葬のための下層の部屋、上層の礼拝室、そしてそれら背の低い廊下が取り囲むという構成を特徴とする。この霊廟という建築類型は、初期西ゴート時代のイベリア半島にも作例が見られるが、パンテオンに直接的な影響を与えたとされるのが、9世紀、アストゥリアス国王アルフォンソ3世(866-910)により、オビエドのサンタ・マリア聖堂の西の端に設けられた王家の墓のための部屋だった。ウォーカーは、パンテオンがその形式と機能において、後期古代の霊廟建築に端を発し、イベリア半島で根付いた霊廟建築の伝統を引き継いでいると結論づけている。報告者は正方形平面を持ち、王家の霊廟という同種の機能を担っていたこのパンテオンを、サン=ドニ聖堂改築の建築的着想源であったことを提示したい。サン=ドニにおいては、パンテオンの形式を参照することにより、パンテオンが担っていた、王家の霊廟という象徴的意味内容をも、参照することができたのである。― 253 ―― 253 ―
元のページ ../index.html#262