形式と意味の伝播サン=ドニ聖堂とパンテオンを結びつける要素は、正方形平面だけではない。同時代に王家の霊廟として果たした機能、およびパトロンの意図に、特異な類似性が認められるのである。聖堂西側にこのパンテオンが建造される以前から、サン・イシドーロ聖堂は、王家の埋葬の地として意図されていた。12世紀初頭にレオン近郊で執筆された『セミネンセ年代記』によると、王妃サンチャは、サン・イシドーロ聖堂の建設に際し、自身と国王フェルナンド1世の祖先の遺体をサン・イシドーロに集めて埋葬するよう、国王を説得したことが伝えられている(注8)。1080年代には王女ウラーカによってパンテオンが増築されるが、11世紀末のパンテオン完成から12世紀にいたるまでの墓の配置は、史料の不在からわかっていない。また、19世紀にはナポレオンの侵略により略奪に遭い、石棺も大部分が散逸している。ただ唯一、パンテオンにおける墓の配置を伝える文書が16世紀の歴史家、アンブロシオ・デ・モラレス(1513-1591)によるものである(注9)。彼は、1572年にサン・イシドーロ聖堂を訪れ、石棺の墓碑銘を書き残した。この時、デ・モラレスが見た石棺の配置は、13世紀初頭に再編されたものであると考えられている(注10)。1番東の列には、国王と王妃、2番目の列には、女王、国王の息子である王子、娘である王女、3番目の列には、12世紀末の貴族が名を連ねている〔図6〕。ロシオ・サンチェスは、この配置が、カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘で、ブランシュの姉にあたるベレンゲラと、その息子、カスティーリャ王フェルナンド3世による治世下において、「レオン・カスティーリャ両王国の統合」という政治的メッセージを持った可能性を提示した(注11)。伯父でカスティーリャ王のエンリケ1世が、後継なく1217年になくなると、フェルナンド3世はカスティーリャ王位を継承する。当時、レオン王国は、すでに母親ベレンゲラとは離婚している父親の、レオン王アルフォンソ9世によって統治され、父と子は政治的に緊張関係にあった。母親ベレンゲラは、息子フェルナンド3世がカスティーリャ王国のみならず、レオン王位を継承できるよう尽力し、1230年にアルフォンソ9世が亡くなると、亡き父親の遺志に反して息子を即位させることに成功し、2つの王国は統合されることとなった。パンテオンの墓の配置において、「レオン・カスティーリャ両王国の統合」というメッセージは、レオン王家出身者の墓が多数を占めるなか、新たに加えられた2人のカスティーリャ系の人物の墓によって示されている。一人は、両王国が統合される以前に、カスティーリャの王位を保持していた、ナバラ王、サンチョ3世(1004-― 254 ―― 254 ―
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