堂、通称栄螺堂である。現在は目黒に移転し、西大島駅前の跡地に同名ながら別の小さな羅漢寺が立つのみだが、かつてはこの地で壮麗な伽藍を誇ったことがさまざまな作品にうかがえる。多いのはやはり栄螺堂という名前に表れた特徴的な建築に焦点をあてる例で、蕙斎政美の『江都名所図会』や『絵本吾嬬鏡』〔図11〕、重政『絵本江戸桜』はその堂々たるさまを描き出している。いっぽうで遠目にも目立ったらしいその屋根を記号とするのが歌麿の『絵本駿河舞』〔図12〕や豊国『絵本江都之見図』〔図13〕であり、あるいはもう少し遠くから建造物全体を捉える蕙斎の『山水略画式』もある。とりわけ、『絵本江都之見図』の画中に配される万亀亭花江戸住による狂歌が、「施餓鬼するのりの利益は薬よりこうの見へたる羅漢寺の屋根」と、棟瓦のうえに小さく描かれた「こう(鸛、コウノトリ)」に「効」を掛けて読むことにも、その特徴的な屋根の認知度の高さがうかがえよう(注17)。これに対して、高い位置に設けられたその物見台の眺望を楽しむ人びとに焦点化したのが鳥居清長『絵本物見岡』〔図14〕であり、北斎の『みやこどり』であった。清長は錦絵でも中判の「四季の富士」シリーズの「羅漢」で、この物見台の扁額の下で眺望を愉しむ女性3人を描いている(注18)。こちらが先述の堂宇や屋根を強調する定型に対して、変型ということになる。この延長線上で構想されたのが、かの北斎の「富嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐ堂」(天保初年頃)であったろう。欄干をめぐらせた回り縁らしき板敷きのうえで思い思いに正面遠くに小さくのぞく富士山を眺める人びとを背後から描いた有名な構図は、この変型を異なる角度から捉えてみせたものといえる。また、この変型を近景において右端3分の1にこの建物を配して眺めを楽しむ人びとを点じ、中央に堂宇の前に広がる野を大きくとったのが、歌川広重「名所江戸百景 五百羅漢さゞゐ堂」(安政4年〈1857〉刊)で、これもまたこの変型を巧みに活かして構成した作といえよう。おわりに江戸名所の各地を描く定型は、以上のように天明~文化初年頃の絵本類でしだいに成立しつつあった。それは日本橋や三囲のような周知の象徴的な地にとどまることなく、本稿で例として論じた以上に、第1節で指摘したようにくり返し描かれたさまざまな場所にいえることであろう。もちろん、名所絵本だけでなく、浮絵や風景を背景とする美人画といった一枚絵、銅版の風景画なども含めて多くの絵師によって何度も描かれることで定型として受容されるに至ったはずで、その定型の把握にはそれらす― 18 ―― 18 ―
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