鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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㉗ 戦時下における京都の前衛画家に関する研究─北脇昇と小牧源太郎を中心に─研 究 者:京都府京都文化博物館 学芸員  清 水 智 世はじめに北脇昇(1901-1951)が初めて易をモチーフとする作品を発表したのは、昭和16年(1941)のことである。同年4月から5月にかけて開催された第2回美術文化協会に北脇が出品したのは、《周易解理図(八卦)》を始めとする易の図式化を試みた作品3点であった。昭和14年(1939)から開始した図式的な絵画(以後、「図式」絵画)は、易というモチーフを通してさらにその独自性を高めていく。小牧源太郎(1906-1989)の作品に仏教的なモチーフが登場するようになるのもまた、昭和16年(1941)のことである。小牧は、同年12月に開催した第2回美術文化小品展に、不動明王をモチーフとする《不動図》を出品した。幼虫や胎児、臓物に羊膜、女性器といった原初的な形態を象徴するモチーフをもとにシュルレアリスム的世界観を構築してきた小牧は、その年を境に奇妙な「仏画的」絵画の探究を開始する。「日本のシュルレアリスト」として知られる北脇と小牧の「変化」の背景には、太平洋戦争を目前に控えた当時の時代状況がある。二人が所属する美術文化協会に対する官憲からの弾圧は、「前衛団体」を標榜する会の方針や作品の傾向に強い影響を与え、遂には指導的役割を担う福沢一郎と瀧口修造の検挙・拘束へと発展した。検挙事件以後に開催された第2回美術文化協会展では、自主規制により、性的な雰囲気を漂わせる小牧の作品《形象石》は出展不可となった。本論では、戦時下の前衛画家がたどった軌跡と描かれた作品について、京都を拠点に活動し続けた北脇昇と小牧源太郎を中心に論じる。北脇の「図式」絵画と小牧の「仏画的」絵画は、一見したところの難解で奇妙な雰囲気が、今日においてもなお見るものを戸惑わせる。それら特異な絵画に込められた意図とは何だったのか。困難な時代に導かれるように生み出された「図式」絵画と「仏画的」絵画の可能性を探ると同時に、戦時下の京都が育んだ二人の前衛画家の差異を明らかにする。1.新な領域の開拓─北脇昇の「図式」絵画昭和14年(1939)、独立美術京都研究所を退所した北脇昇と小牧源太郎は、京都からただ二人、美術文化協会の創立に参加した。『美術文化』創刊号(1939年8月)で行われた「現代の前衛美術を如何に進めてゆきたいか」という設問に対して、北脇は― 283 ―― 283 ―

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