次のように答えている。耕作された土にものを「作る」ばかりが作る事の総でないやうに、新な領域の開拓、これこそ前衛美術の本領ではないだらうか。吾々はこの意味で前衛美術は「作る」ことより先づ「拓く」ことに専念す可きと信ずる。(注1) 同年10月、北脇が「小牧源太郎・北脇昇二人展」(京都朝日会館画廊)に出品したのは、《七・五・三構造(龍安寺石庭)》、《非相称の相称構造(窓)》等のいわゆる「図式」絵画であった。大谷省吾が「ここに至り北脇はシュルレアリスムの実験から踏み出し、秩序や構造の探求へと本格的に向かい始める」(注2)と述べているとおり、昭和14年(1939)を境に北脇の画風は大きく変化する。《独活》や《空港》(いずれも1937年)に代表されるかつてのシュルレアリスム的作品にみられた幻想性は影を潜め、因数分解や植物学、ゲーテの色彩論や仏教など多領域への興味関心を駆使した、「新な領域の開拓」が開始した。その背景には、数寄屋造りの建築物と広大な庭園からなる邸宅(現・臨済宗保水山廣誠院)に寄宿していた北脇の特殊な住居環境と生活、そして京都人民戦線以後の急展開する時局に追い詰められた日常がある。複雑な日常や感情に新たな秩序を与えるかのように、合理的な線や均質な油絵の具の生み出すイメージが白い画布を満たす。易というモチーフもまた、「図式」絵画という「新な領域の開拓」の過程で発見された。その萌芽はすでに、『美術文化』創刊号に掲載された北脇の文章「相称と非相称」に見受けられる。文中の図版として掲載された「河図」〔図1〕と「洛書」〔図2〕は、江戸時代の書物『易経集註』の序目からとられたもので、奇数と偶数が、白と黒の丸とそれぞれを繋ぐ線とで「図式化」されている。北脇の興味は「一方は他方を、他方は又一方をそれぞれ相関的に成立せしめるもの」(注3)としての奇数/陽/白と、偶数/陰/黒の相関関係にある。「これに依って吾々はレアリズムとシユールレアリズムとの相補性も抽象派と具象派の相補性も理解できるであらうし、又それぞれの傾向を単にその現はればかりで論壇する事の非も了解出来ると思ふ」(注4)という発言には、現実社会の様々な矛盾や混乱を解決する方法を「相称と非相称」の相関関係に見出した北脇の、抑制された感情の発露を見る。それから二年後の昭和16年(1941)、北脇は第2回美術文化協会展に「周易」を冠した3点を出品した。中村義一が「同じように図式的な画面であり、同じように独自の思惟内容をひそませながらも、それが何であるのか一見読みとりようもない不思議― 284 ―― 284 ―
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