であった。2.「大我」を目指して─《鴨川風土記序説》という実験「小我」を批判して「大我」を目指す北脇の試みの一つに、5名の画家によって描かれた共同制作《鴨川風土記序説》(1942年)〔図4〕がある。北脇の呼びかけに対して、小牧と小石原勉、原田潤、吉加江清が加わった。中央の縦長の画面「平安京変遷図」を北脇、右上の「藤原時代」を小牧、左上の「足利時代」を吉加江、右下の「桃山時代」を原田、そして左下の「徳川時代」を小石原が担い、一つの「鴨川風土記序説」を構成した。共同/集団制作の実験は昭和12年(1937)、第3回新日本洋画協会展(大礼記念京都美術館)出品作である集団制作《浦島物語》においてすでに試みられている。それはまた、「浦島物語」という誰もが良く知る日本の昔話をテーマにした、極めてスリリングなシュルレアリスムの実験でもあった。大谷によれば、14名の画家たちの描く「浦島物語」の断片が、右から左に横一列、まるで絵巻物のように展示されたという。北脇から与えられた「命題」や「色」に従うこと以外は個々の画家に委ねられた、「妙屍体」の実験である。小牧が「その当時、京都の芸術運動の企画を、ほとんど北脇さんがしている」(注7)、「ほとんどはそれほどの意識をもっていなかったように思う。中には絵画理念として全くシュルに反対な連中もいた」(注8)と回顧しているとおり、実験に携わった北脇以外の画家が、集団制作の意図を完全に把握していたわけではない。だがバラバラであることがかえって「物語」を絵巻物的に見せることや、多くの日本人が知る物語からの解放を促しているとも言えるだろう。一方の《鴨川風土記序説》は、第3回美術文化協会展の「美術文化における文化建設」というテーマに応じて描かれた、シュルレアリスムの実験とはいかにも無関係な共同制作である。大谷が「堂本印象画塾による第4回東丘社展で発表された18点の共同制作を意識したものと考えられる」(注9)と指摘する本作もまた、北脇を中心に行われた「新な領域の開拓」を目指した絵画の実験であった。《鴨川風土記序説》を構成するキャンバス5点のうち、北脇の「平安京変遷図」には変遷する京都が、不変の鴨川を中心に描かれる。縦長のキャンバスそのものが、京都を北から南へと流れる鴨川の「見立て」となった本作もまた、《周易解理図(八卦)》と同じく北/天の方位が明示された作品と言えよう。「平安京変遷図」に描かれた4点の「変遷図」のうち、時代的に最も遡るのは一番上にある「平安京」の図である。描かれた赤い円形は天皇の居住区画である内裏、黄色い三角形は政治の中枢である朝― 286 ―― 286 ―
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