トシテノ絵画」とは如何なるものであろうか。3.本価は腹に─小牧源太郎の「仏画的」絵画「大我」を求める北脇の近くに居続けた画家でありながら、思想も描き方も、決して同質化しなかったのが小牧である。福沢一郎が「同じ京都のこれも独自なシュールレアリスト北脇昇君と、ガクガクの議論をかわした」(注13)と述べるとおり、北脇と小牧は、それぞれ「独自」の芸術理論を保持しながら、独立美術京都研究所から美術文化協会へと、互いに画家としての歩調を合わせていた。ゆるやかに易経的モチーフへと傾斜していったかに見える北脇に比して、小牧の戦時下における変遷はいかにも唐突である。契機となったのは昭和16年(1941)、福沢と瀧口の検挙以後に開催された第2回美術文化協会展であり、対の石棒を描いた《形象石》は会員の相互審査により展示不可となった。明確な基準を欠いた自主規制に対して「何時如何なる所に於いても自己の本価を徹底的に追及する事以外に真実はない。本価は腹に。(生活)技術は指頭に」(注14)とその憤りを記した小牧は、次のようにも述べる。昭和十六年(一九四一)美術文化第二回展ヲ終エテカラ佛教的ナモチーフ又ハ素材ニヨツテ作画ヲ意図シタ。勿論所謂佛画ヲ絵クノガ真ノ意図デハナク一見佛画(所謂宗教画)ノ如ク見エテモ、余ノ哲学観念タル造型人間学ノ諸原理ヲカゝル外皮ノモトニ於イテ表現スル事ガ真ノ意図デアル。(注15)「余ノ哲学観念タル造型人間学」、つまり矛盾する原理の統合を模索してきた小牧は、《不動図》(1941年)の制作から以後5年間、全31点の「一見佛画ノ如クニ見」える「仏画的」絵画を描き続けることになる。同年12月頃、「多少仏教教理は識っていたが、古美術については全く無知であった」(注16)という小牧は、川勝政太郎の史迹美術同攷会や源豊宗の天平会に入会し、本格的に仏教や古美術について学び始めた。全17部におよぶ小牧の『史迹・美術資料ノート』(1942~46年)には、会の講義録、近畿地方の神社仏閣や史跡、博物館の見学内容が、伽藍配置や仏像の模写を交えながら丹念に書/描かれている。例え「仏画的」であることが「外皮」であったとしても、残されたノートは仏教や仏教美術、古美術に没頭する小牧の姿を伝える。一方で、描かれた油彩作品は、仏画的なイメージが「外皮」に過ぎないことを公然― 288 ―― 288 ―
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