と示す。その一つに、第3回美術文化協会展の出品作《漂空菩薩図》(1942年)〔図5〕がある。小牧は制作の意図について次のように述べる。曼荼羅中ノ金剛鉤菩薩中ノ金剛鉤女菩薩ト観音トヲコムプレックスサシタノガ此図ノ菩薩像デアル。此ノ像ト同形ノ菩薩像ヲ影絵風ニ表出セントシタ。(影絵ハ二次元性ノモノデ平板デアルガ立体的ナ具象的ナモノヨリモ、反ツテ幻想的デアル此ノ事ハ充分注意サレネバナラヌ)(注17)「漂空菩薩」の左手にあるのは、金剛鉤女菩薩が衆生を引き寄せるための金剛鉤ではなく、観音菩薩の持つ未開敷蓮花である。そしてその右手が示すのは、観音菩薩の花弁を開く相ではなく金剛鉤女菩薩の与願印である。勇猛な「金剛」と大慈大悲の「観音」という二つの異なる菩薩の複合体「漂空菩薩」をモチーフとする本作は、「仏画的」絵画ではあっても、いかなる意味に於いても仏画ではない。「菩薩」らしきものは、そうであるべき姿形からも在り方からも、礼拝の対象であることからも逸脱する。より不可解なのは、「漂空菩薩」の前を漂う二つの影と、それを包含する円である。「立体的ナ具象的ナモノヨリモ、反ツテ幻想的デアル」という影が、実体であるはずの「漂空菩薩」から分離し、先導する。実体が伴わないが故に触れることも出来ないはずの影が、日輪に包含されることによって過不足なく充実した境地へと至る。小牧作品に度々登場する球体は、胎内を思慕する小牧自身の無意識を示唆し、矛盾する原理を画布の上で統合するための重要なモチーフでもあった。昭和18年(1943)1月9日、京都市教育局長、京都市文化部長、大政翼賛会京都府支部実践部長を顧問として、北脇と小牧を含む京都府在住の洋画家約150名が参加した京都洋画家連盟が発足する。「時代ノ趨勢ニ適応スル美術家トシテノ奉公ト作家相互ノ便宜研究機関ノ確保及ビ後進誘導ヲ図ルヲ」(注18)目的とする連盟の、結成後初の展覧会として開催されたのは「陸海軍献画展」であった。出品の後、日本海軍舞鶴鎮守府に献納されたという《漂空菩薩図》の行方は、今もわからない。おわりに伝統や古美術が見直され、地方文化の高揚が叫ばれた新体制下の日本において、京都を拠点とする北脇昇と小牧源太郎もまた、転換する時代に翻弄されながら「新な領域の開拓」を目指し続けていた。「図式」絵画は、身近なものから独自の発想を展開― 289 ―― 289 ―
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