また、原画を元に印刷された複製画も多く制作・販売した。北京の展覧会では、多くの作品が外交官らに買い上げられ、多数のプロテスタント宣教師を含むキリスト教関係者にも購入されていたという(注3)。こうした状況には、中国様式による宣教美術が現地での宣教や信徒のためという当初の目的よりも、海外での展示や宣教の宣伝媒体といった役割に応えているとの指摘もあった(注4)。以上のような中国カトリック美術は、宣教美術のモデルケースとして、その開始とほぼ時を同じくして西洋キリスト教界へ紹介され、以後、刊行物や書籍に掲載され続けた〔表1〕。例えば、北京で発行のカトリック雑誌『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(公教教育叢刊)』は、1932年5月号で中国キリスト教美術の特集を組み(注5)、それを見た教皇は満足を示したという(注6)。2.カトリック美術協会と長谷川路可、小関きみ子2-1.日本のカトリック美術同じ頃、日本においても、新たなカトリック美術を創出しようという美術家たちの試みが開始されていた。1928年、日本画、洋画を含むカトリックの美術家たちによって、カトリック美術協会が設立された。同協会は、駐日教皇使節を総裁とし、上智大学のイエズス会士ホイヴェルス神父を顧問とするなど宗教者の指導を仰いでおり、中でも教皇使節(1933~1949)のパウロ・マレラ大司教は、コスタンティーニとも親しい関係にあり、協会の活動を後押しした。1932年の第一回協会展を皮切りに定期的に東京で展覧会を開催したほか、1937年のマニラ万国聖体大会、同年のパリ万博のカトリック館、1950年のバチカンの聖年の宣教美術展など海外へも出展した。作品は、バチカンのほか、パリ信仰弘布会、アーヘン宣教民族学博物館などヨーロッパに渡った。そうした中、同協会の画家たちには、ヨーロッパにおいて、日本を代表するカトリック画家として注目され作品が評価されるようになる者たちがいた。本論文では、その中から長谷川路可(1897~1967)と小関きみ子(1903~1984)を取り上げる。ふたりは、同協会の設立メンバーでもあり、中心的な会員として活動していた。2-2.長谷川路可長谷川路可(本名・龍三)は、1897年東京に生まれ、暁星中学校在学中の1913年、カトリックの洗礼を受け、洗礼名ルカを授かった。東京美術学校日本画科で学んだ後、フランスで油彩画やフレスコ画を学んだ。日本におけるフレスコ画やモザイク画の第一人者として、1928年、日本初のフレスコ壁画をカトリック喜多見教会に制作したほ― 295 ―― 295 ―
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