か、公共美術も多く手掛け、代表的なものに国立競技場のモザイク画(1964年)がある。設立に関わったカトリック美術協会以外にも、新興大和絵会展、帝展、日展などへ出品し、カトリック画家としてだけでなく日本の美術界で広く活動した。以下で、長谷川の描いた聖母子像を見てみたい。《切支丹曼陀羅》(1927年)〔図2〕は、日本人初の司教として早坂久之助が叙階されたのを記念して、教皇ピオ11世に献上された日本画で、バチカン博物館に所蔵されている(注7)。南蛮船の来航、布教、キリシタンの殉教の光景の上方に、和洋折衷ともとれる東洋的な表現の聖母子が描かれている。1938年、広田弘毅外務大臣から山本信次郎海軍少将を介してブラジルのレーメ枢機卿に贈られた《日本の黎明》では、十二単をまとった聖母が、小袖と袴姿の幼子イエスを抱いて雲に乗っており、その足元には富士山の風景が広がる。1941年の第六回カトリック美術協会展出展の《感ずべき御母》も同様に、十二単姿で幼子イエスを差し出すように抱く聖母である。一方、長谷川が描いた聖母子像は、これらのように日本的要素が顕著なものだけではない。1939年の第五回カトリック美術協会展に出展され、カトリック片瀬教会に収められた《ルルドの聖母》は、掛軸の日本画であるが、聖母は19世紀にフランスのルルドに出現したとされる白い衣に青い帯の姿である。同教会の《聖家族》(1946年)では、聖家族の姿は古代の中近東を思わせる服装となっている。1950年のバチカンの聖年の宣教美術展に出展した《受胎告知》は、右隻に聖母、左隻に天使が配された二曲一双の屏風の日本画である。描法は、毛筆による弾力ある繊細な筆線を生かした描線、平面的な彩色、遠近法に拠らない立体物の描写など日本画的な要素とともに、聖母と天使の服装はフラ・アンジェリコを思わせる初期ルネサンス風なものとなっており、日本的要素と西洋的要素が融合したものとなっている。長谷川の考える聖母子像とはどのようなものだったのだろうか。1938年5月号の『カトリック画報』でのインタビューでは、「これから聖母の繪をお畫きになるとしたら、どんな抱負をお持ちですか」との質問に対して、狩野芳崖の《悲母観音》を挙げ、「實に素晴らしい出來だと思ひます、あの位のものを畫いて見たいですね[中略]日本カトリック美術があれまでいかなければ駄目でせうね」と述べている(注8)。長谷川の代表作といえるのは、1951~1957年にかけてイタリアのチヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会に制作したフレスコ壁画である。チヴィタヴェッキアは、旧教皇領であり、地中海側からローマへの入口となる港町である。1615年、慶長遣欧使節の支倉常長らが上陸したことで日本とも縁がある。この壁画は、主祭壇の背後に26聖― 296 ―― 296 ―
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