鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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て、天主の光榮の為に讃美してゐる事を知つて、非常に僕は嬉しく思つてゐる者である。何うかして彼等畫家と交歓を試みたいものだ」と希望を述べる。そして、日本のカトリック美術を省みて次のようにしめくくる。「最後に僕は我等を省みて、我がカトリック美術協會員に言ひたい。それは、僕等も彼等のやうにそのお國柄に随つて新しくカトリック的宗教畫を創作することだ。徒に西洋名畫を模寫してゐたのでは駄目だと思ふ。日本人によつて日本の聖畫が創作される可き時代である」(注12)。翌1939年5月、第五回カトリック美術協会展に際して、長谷川は、近く中国に渡航する者に託して輔仁大学学長ラーマン師に宛てた同大学美術部へのメッセージを送った(注13)。この後の進展は未詳であるが、おそらくは戦争と戦後の国際状況により交流は成功しなかったと思われる。一方、1937年2月、カトリック美術協会は、フィリピンのマニラでの万国聖体大会に際して開催された宣教展へ作品を出展した。聖体大会とは、キリストの聖体を顕彰する宗教行事で、教皇代理や各国からカトリック関係者の使節団を迎え盛大に執り行われる。このとき展示された日本の作品は、長谷川1作品、小関5作品を含む日本画15点である。また、1939年に日本を訪れたフィリピンの文学者フランシスコ・B・イカシアーノは、新聞に連載した日本旅行記で日本のキリスト教について紹介する中で、長谷川らの作品を掲載している(注14)。これらの事例から考えられるのは、自国と西洋という二項軸だけでなく、他のアジアの国の作品を参照することで互いに新たな刺激を受けていた可能性である。今後の検証の課題としたい。4.宣教美術をめぐる評価宣教美術は、西洋人宣教者が宣教地でキリスト教が現地に合った形で受容されることを目的に推進したと同時に、その地の美術家たちの自国の伝統に根差したキリスト教美術を創出しようという探究を後押しした。しかし、宣教地の人びとがしばしば西洋式の美術や教会建築のほうを好む傾向にあること(注15)、また、先述の中国の事例のように、現地の様式による宣教美術が現地での目的よりもヨーロッパでの需要に応えていた現状もあった。日本式の聖画は、ヨーロッパのキリスト教関係者の間で評価されたのに対して、日本のカトリック界においての評価はどのようだったのであろうか。日本の東北地方の風俗による聖母子やクリスマスを描き続けた小関きみ子の例をみてみよう。― 299 ―― 299 ―

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