化」のプロセスと捉えたい。ひとつは主題の脱ヒエラルキー化であり、もうひとつは手法の脱ヒエラルキー化である。後者のテーマについては機を改めて論じるとし、本論ではファルギエールの主題とその図像の取り扱いに関して、とりわけ初期作品を中心に議論していく。公的な場であるサロンなどで、現代的主題を扱った作品を歴史画のような規模で展示したのは、まずはドラクロワなどロマン主義の芸術家たちであった。そしてクールベやマネらの「前衛」芸術家たちの活動を経て、第二帝政期から第三共和制期にかけてはアカデミスムの芸術家たちもまた、「俗」なる主題や表現を積極的に試みていくようになる(注7)。ファルギエールもまた、とりわけ後述する《トラステヴェレのヌッチア》(1865)といった作品において、世俗的主題を堂々としたブロンズ像で表し、ヴィラ・メディチ滞在の課題として提出したことを、激しく非難されていた(注8)。これまでのファルギエール研究ではしかし、実際の造形の問題として、ファルギエールのなかで古典的主題や図像がどのように意味を持っていたのかについて、体系的に議論されてこなかった。アカデミックな規範が徐々に弱体化していくのに伴って、ファルギエールという芸術家はとりわけ、描くべき主題や倣うべき先行図像を意識しつつ、それらをより柔軟に引用していく。これは、過去の芸術の規範を逆手にとって制作していったエドゥアール・マネのような姿勢に連なるものである。ただ、ファルギエールの場合、これは前衛性を強調するためというよりはむしろ、アカデミスム内部での彼の立ち位置をはっきりとさせるために採られた戦略であった。以下本稿では言説、図像の両面から、ファルギエールがアカデミックな主題とその図像がもつ規範意識を、どのように利用して制作していったのか、その様相を明らかにしていきたい。1.「自然」の追求──アカデミスムのなかの「反アカデミスム」ファルギエールの「型取り」など「インデックス的」とされる技法への興味については、すでにコルパトーによって『アーム・ラティーヌ』誌に掲載された、彼がパリに出てきて間もない頃のあるエピソードが挙げられている(注9)。同じエピソードは、より詳細な記述によって以下の記事でもまた知られていたものであった。セーヌ河畔を歩いているとき、私は露天の陳列棚のまえで立ち止まりました。そこでは、美術作品の小さな複製や、古代彫刻の縮小版が、幼いイタリア人の複製塑像工たちによって売られていたのです。手元に残っていた何スーかを握りしめて、一体のミロのヴィーナス像を買いました。そして自分の屋根裏部屋へと戻っ― 307 ―― 307 ―
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