て、バケツいっぱいの水の中にまずこれを放り込みました。像の内部は石膏で埋め、外側には泥漿を塗りたくりました。そこにまるで熱を帯びたインスピレーションの跡であるかのように、鑿の跡を幾筋もつけて、目に見えるようにしたのです。そして、この作品をトゥールーズに送りました(注10)。このエピソードはしかし、ファルギエールと「型取り」というアプローチとの関係性を単に示すだけのものではない。それ以上に、ファルギエールのアカデミックな教育法に対する、微妙な態度を示すものとして理解されなければならないだろう。まず《ミロのヴィーナス》を模刻するという古典的な修練を揶揄し、それを複製像という機械的、職人的な制作物で代用している。そしてここには「インスピレーション」の痕跡を捏造するというアイロニーもまた垣間見える。トゥールーズからパリへと出てきたファルギエールは、この街の活気を浴び、「美術学校のことは完全になおざりにしていました(注11)」と語り、どこにあるのかさえ知らなかったという。彼はこのように、まさにアカデミスムの中心にいながら、「反アカデミー」的な態度をとることによって、自らの芸術家としての立場を明確なものとしようとした。エコール・デ・ボザールではフランソワ・ジュフロワのアトリエに入り、1859年にローマ賞を受賞後、ローマのヴィラ・メディチに滞在して、アカデミスムの典型的なコースを歩んでいく。一方、ローマでの滞在は、古代文化の聖地であるこの街での芸術的な経験だけでなく、また別の方向から彼に大きな影響をもたらしたことが、後述するように数多くの伝記などに記されている。「ファルギエールはローマに酔いしれながら、この街の過去と現代のなかで過ごした(注12)。」と述べられているように、彼の制作は古代と現代の、相対するものを揺れ動きながら確立していった。古代からの遺跡が残り、一方で同時代の活気ある人々のなかで過ごした経験は、彼の創作に色濃く反映していく。そのなかで先輩の彫刻家ジャン=バティスト・カルポー(1827-1875)の影響がとりわけ大きかったことは、数多くの記録が証言している。「ファルギエールとカルポーは、同じような好み、共通する芸術上の傾向を有していたので、すぐに共に行動するようになった。それは動勢(mouvement)と生(vie)への共通する情熱であった(注13)。」カルポーから学んだというこのふたつ、「動勢」と「生」に加えて、「自然」(nature)という語もまた、ファルギエールについて語られる際に頻出するものである。― 308 ―― 308 ―
元のページ ../index.html#317