㉚ 式場隆三郎研究─1930年代の「アール・ブリュット」の紹介活動と民藝論との関連性─研 究 者:医療法人式場病院 式場隆三郎記念館準備室 職員 山 田 真理子はじめに式場隆三郎(1898-1965)とは、新潟医学専門学校(現・新潟大学医学部)に学んだ精神科医であり、医療の傍ら柳宗悦が率いた民藝運動、ファン・ゴッホら芸術家の研究・普及活動、200冊を超える著作の執筆、軽度の知的障害をもった画家・山下清の支援や紹介など多彩な活動に尽力した。近年、その業績や足跡を評価しようとの機運が高まっているが、活動の膨大さゆえ未だ明らかになっていない面が多い。柳宗悦が率いた民藝運動への参画もその一つである。学生時代に雑誌『白樺』に傾倒し新潟で文化運動を行った式場は、「民藝」の概念の生成に繋がった木喰仏の調査活動に参画。その後も民藝運動の発展を支え、昭和14年(1939)に日本民藝協会の機関誌『月刊民藝(民藝)』の総責任者となり本格的に運動に参画した。大正中期から昭和初期の胎動期から戦後の復興期を一貫して運動の「指導者的立場」にあったと評価されている(注1)が、活動実態の調査研究は圧倒的に不足している。そこで報告者はこうした課題を克服するため、日本民藝協会の機関誌『工藝』、『月刊民藝(民藝)』等の式場の著作、日本民藝館に現存する式場の柳宗悦宛書簡を元に、式場が特に旺盛な活動を展開した昭和20年(1945)までの活動を悉皆的に調査した(注2)。その結果、一時「崇拝者」と表現するほど柳を尊敬し敬愛の情を抱き続けたこと(注3)、民藝運動の精神運動としての側面を注視し、自身の職責と密接な関係をもつものと捉え邁進したことを明らかにした(注4)。そしてこれを踏まえ、式場の活動の中で近年注目が高まる1930年代における無名の精神疾患患者の造形物に関する紹介活動について検討したところ、柳の民藝論や営為との深い関連性、連動を見出した。本稿は、この様相について論じることで日本における早期の「アール・ブリュット/アウトサイダー・アート」(注5)紹介の実態について先行研究が示していない若干の知見を提供し、式場の実像に迫る一歩となればと考える。(1)式場の精神疾患患者の造形物に関する紹介活動の意義式場の患者の造形物に関する紹介活動の研究は、アール・ブリュット/アウトサイダー・アートに対する国内での関心の高まりの中で醸成された。すなわち、式場が戦― 323 ―― 323 ―
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